【日記】人生を聴く
こんばんは!
今夜はギョウザです。ニンニクギョウザです。
あ、出来合いのなんですけどね。
めちゃくちゃ臭くなるやつです。
大好きなのですが、日曜日に誰にも会わない予定のときにしか食べられません。
それに、たぶんというか確実に、胃腸が弱いので、あんまり頻繁に刺激の強いものを食べないようにしたほうが良い。
そんなわけで、ひさびさのニンニクギョウザを堪能。
至福はここに。
さて、今回もメンタル系のお話です。
これはわたし個人の感想、気持ちを書いたものですから、良いも悪いもなく、ただ思ったことを連ねています。その程度のものであることをご了承ください。
最近よく見るようになったYouTubeチャンネルで、『傾聴』のことを取り扱っていました。
ぶっちゃけ、こういう風に話すと良いよということではなく、そもそも信頼関係が築けているか? 相手を支配しようとしていないか? その前提が満たされなければ、傾聴スキルなど意味がないとのこと。むしろ、支配のための道具に成り下がることすらあるようです。
そのなかで、傾聴スキルを6段階にわけたものを紹介していて、それがとても参考になりました。
1.聞く姿勢すらない
2.事柄(事実)さえも聞けない
3.事柄(事実)は聞ける
4.気持ちを理解しようとはする
5.気持ちが理解できる
6.人生を聞くことができる
さて、わたしの傾聴スキルはどのレベルかな、と考えて、たぶん、「3」だろうなと思いました。
たぶんきっと、事柄は聞けてると思う。出来る時には気持ちを理解しようとしているとも思いたいが…。
あ、これはわたしの場合は自分自身への傾聴ということです。
前に記事にしたのですが、わたしはいい歳で未婚。子どももいないことを引け目に感じています。これは現在進行形です。
結婚も子どもも手に入れた友人にめっちゃ嫉妬してます。
これは、わたし自身を事柄で判断しているということだと思いました。
『未婚、子どもがいない』=不幸、恥ずかしい、引け目、劣っている
『既婚、子どもがいる』=幸福、立派、誇り、優れている
ってね。
ほんとうは、そんなに単純ではないことはわかりますけどね。
体裁、世間体、常識、それを基準として自分を見ているから、そういう気持ちになっていることは理解できます。
注意深く聴けば、「未婚です」と他人に触れて回るのはイヤだけど、『未婚である』という事実自体がわたしをさいなんでいるわけではないことはわかる。
だって、しょうがないじゃない。結婚に至るような人間関係を築けてこなかったというだけのこと。『わたしの』人生では今のこの状態は、異常ではない。
とても順当なのです。
ただ、これからについては、できるのなら愛する人を見つけたいと思っています。
自立して、『わたしが』愛することを学ぶために。
そして叶うなら、相互依存、分かちがたい『わたしたち』として生きられるように。
まあ、まずは自立なんだけど。
そう、例えるなら、子どもを持つ親が、子どもの成績が悪かった時に、
「こんな成績恥ずかしい、○○さんは満点だって(だからお前も満点とれ)」
と言うようなものです。
子ども自身のことが一切見えていないから、言えることです。
事柄、点数だけです。見えているのは。
成績が悪いと子どもがのちのち大変だから、勉強するようにこんな言い方をしているだけ、かもしれませんが。
そして、親自身も自分の事柄だけしか見てもらえなかっただけかもしれません。
勉強していなければ、点数が取れないのは当たり前で順当なことです。
そもそも勉強する習慣はあるのか? 授業を理解できているのか?
そういった部分での助けを子どもが必要としているのなら、環境を整えてやる、協力することは親にできること、かもしれません。
「こんな成績じゃダメ、もっと良い成績をとれ」というだけでは全く具体的じゃないし、アドバイスでも何でもなく、役に立たないです。むしろ、害悪にしかならないと思います。誇りを挫きます。
わたし自身も、「結婚できてない」という事柄だけで、「早く結婚しなければいけな
い」「結婚できないなんて人間としてなにか致命的な欠陥があるんじゃない?」って感じで、セルフで害毒を吐いていますね。
「こんな『わたし・人生』じゃダメ、もっと世間に誇れる者になれ」
という、自分自身へのメッセージです。破壊・破滅的メッセージですね。
…。
ふっざけんな!(#^ω^)ですね。
ああ、今ならこんな中身スッカスカな言葉で頑張るなんてバカバカしいことだと明確に理解できます。
害毒を吐いているわたし自身を責めるべきか?
罰さなければならないか?
事柄だけを見るのならそうなるでしょうが、わたしが自分自身に害毒を吐いていたのはどうしてなのか?
たぶん、例にした子どもを持つ親と同じ。「こういう状態(好成績・結婚)」が望ましく幸福にしてくれるのだという信仰をもっていたというだけ。
そして、圧倒的に支援力が乏しかったというだけ。
端的に言えば、力不足。
わたしが歩んできた人生を見渡せば、これは順当なのです。
至極まっとうな結果です。
だから、罪はなく、罰も必要ない。
そして気づけたのなら、変わればいい。
もっと具体的にわたしを支え、望む方向へ進んでいけるように。
そのためには、注意深くわたしの気持ちを、『人生』を聴いていかなければならない。言葉にすればとても簡単で単純なことだけど、実行するのは難しい。
でもそれこそがわたしにしか歩めない、『わたし』の人生。
いつか、自分のことも他人のことも、『事柄』だけじゃなく、その『人生』に思いをはせて理解できますように。
では、また。