晴れても曇っても雨降っても

目標を探すのが目標。そんな日々。

【日記】むなしさを考える③

こんにちは!

 

暑いですねι(´Д`υ)アツィー

ド田舎に住んでいるので、朝夕はけっこう過ごしやすくなってきましたが、日中はやっぱり暑い。

やる気がそがれます。

そんなわけで一か月ほど放置でした。あはは。

 

とあるブログで体をゆるめよう! というおススメがあり、その影響を受けて最近は、長年の腰痛を改善しようと整体に通っています。

めちゃくちゃバキバキにコチコチで、施術してもらった翌日には、血行がよくなったのか、発熱。というか、体温が上がってびっくりしました。単に気温が上がったからとも考えられるけど。

これまでもストレッチはしていたけど、めちゃくちゃ痛かったんだな~という感じ。

身体って、動かしても痛くなくなるんだね!

いえ、いまだに痛いは痛いのですが、ずいぶん痛くなくなったんです。感動。

あと、関係あるのかわからないけど、前の部署で忙しくしてたころからわりと頭痛がおきていて、「年かなぁ」と思ってあきらめていたのですけど、それも軽くなったというか、ここ一か月ほどは痛くないです。

前の部署が忙しくて、そのストレスが原因であったのなら、今の部署でわりと余裕があるので、そのストレス減のおかげという可能性もありますけどね。

まあ、コレが原因だ! というのがわからないのでなんとも言えないのですが。

ただ、すごく調子がいいので、40年ちかく溜め込んだゆがみを正して、できれば筋力をつけて快適に生きていきたい。

 

さて、①②につづき、メンタル系です。めちゃくちゃ長くなってしまった…。

これはわたし個人の考えですので、まあ、「こんなこと考えてる人間がいるのだな~」と流していただければ幸いです。

 

これは正直、受け付けないひともいると思います。

自分としては、わりと危険思想だと思っています。

ニヒリズムととられても仕方ないので。でも、言い訳じゃないですけど、ニヒリズムじゃなく、ちゃんと希望のあるものだとわたしは思っているのです。

 

さて、大げさなことを書いてしまいましたが、実際はたいしたことないかもしれません。

イヤだなぁと思ったら、素直に忘れていただきますように。

 

さてさて、わたしが未だ両親との間に葛藤を抱えていたときのことです。

まだアドラー先生の課題の分離を知らなかったときです。

その時の状況としては、すでに働き始めており、全日制の大学進学は断念していました。通信制の大学はたぶん始めていたはず。

消極的にとはいえ、奨学金を背負いたくなかったために自分の意志で進学をあきらめたというのに、まだぐずぐずと不平不満を抱いていました。

 

「わたしのためにちゃんとお金を準備してくれていなかった」

「わたしの将来のことをちゃんと考えてくれていない」

「わたしは大切にされていない」

 

今考えると恥ずかしい限りですが、↑のようなことをまったくまじめに考えていました。

 

「わたしのためにお金を準備するべき」

「わたしの将来のことを考えるべき」

「わたしを大切にするべき」

 

言い換えれば↑こういうことですね。

それを当然のことであると感じ、その当然の権利を侵害されてわたしは怒っていたのです。

 

でも、怒っていても結局、自分には怒りの表出は難しいし(悪い人になりたくないから)、なにか、どこか、自分の無責任さもうすうす感じていて、『この状況では仕方なかったんだ』と自分に言い聞かせていました。

べつに両親の金銭管理がうまくないのは、ずっと一貫して変わらないことだったので、ことさらにわたしに対する嫌がらせではないのです。

 

そうして我慢していたところ、仏教の逸話を耳にしました。

 

とある女性がこの世を恨み憎んでいる。

なぜなら、その女性はもともとは裕福な家に生まれ、大人になるとさほど裕福ではないけど働き者の夫と子宝にも恵まれて幸せに善良に暮らしていた。

しかし、あるとき洪水で夫も子どもも相次いで亡くなり、実家も失ってしまった。

愛する家族も、雨風を凌げる家も失い、善良に生きてきた女性はこの世の理不尽を恨み憎んだ。

「なぜこのわたしが、なぜこんなひどい目にあうのだ」と。

女性の訴えを聞いて、お釈迦様は静かに問い返した。

「なぜ、あなたはそういうことが自分の身にだけは起こってはいけないと思うのか?」と。

 

かなりうろ覚えですけど、だいたいこんな内容だったと思います。(違ってたら申し訳ない)

 

家族を、住居を失ったことはもちろん悲しい、つらい。

だが、この女性を苦しめているのは、この女性自身が持っている

「こんなことはわたしの身に降りかかるべきではない」

という思い。幻想であると。

 

これを知ったとき、自分の苦しみの根本を考えてみました。

 

「親なら子どものためにお金を準備して当然」

「親なら子どもの将来のことを考えて当然」

「親なら子どもを大切にして当然」

 

このごく当たり前で当然のことを、親がしてくれなかったためにわたしは苦しんでいる。

お釈迦様がおられたら、きっと静かに問い返される。

「なぜ、あなたはそれをしてもらって当然だと思っているのか?」と。

 

ごく当たり前で当然こうあるべきということなどない。

 

その視点に立つと、両親に対する怒りも憎しみも消える。

怒りが消えれば、我慢するため自分に言い聞かせるという必要もなくなる。

 

だけど、その考えを受け入れるのは悲しくむなしい。

子どもへの虐待、いじめ、事件、事故、病気、障害、親への虐待、貧困。

この世には、とうてい受け入れがたいことがある。起こってほしくないことが起こる。

ごく当たり前で当然こうあるべきということなどないのなら、

ごく当たり前に当然こんなことがあるべきではない

ということもまた、無いのだ。

 

とてもむなしい思いがしました。

すべて単なる現象に過ぎない。

こうあるべきなんてない。こうあってはならないということも無い。

そんな世界を生きている。

 

どんな素晴らしいこともうれしいことも、どんな悲しいことも悔しいことも、ある。

ただ、あるだけ。

 

それを受け入れて、改めて両親を見てみれば、両親は「当たり前のようにわたしを育ててくれた」「当たり前のように高校まで行かせてくれた」。

 

この世に当たり前はない。

 

可能性だけを言えば、両親はお金も手間暇もかかるわたしを手元で責任をもって育てることをしない、ということも選べた。高校はお金がかかるから行かなくてよい、ということだってできた。じっさい、そんな選択をする人もいる。

 

べつに、自分よりも大変な状況の人を想定して、納得しようというわけではありませんよ。

まあ実のところ、大学進学できなかったことを恨んだ理由は、『みんなが行ける』ものなのに、わたしが行けないからということでした。もしも、大昔のように大学進学が当たり前ではなかったのなら、あそこまでこだわらなかったでしょうね。

逆に言えば、大学進学率が100%にちかいのに、進学できなかったら気が狂っていたかもしれないですね。

 

わたしの苦しみは、絶対的で揺るがないものではなかった。

お釈迦様の教えを受け取るのなら、苦しみとは自分自身で生み出した幻想だということです。

ある日突然生まれて、ある日突然死ぬ。

その間に起こることをただそのまま受け入れていくだけ。

判断も評価もしない。ただ、常に自分はどうありたいのか?  それだけを考え、選択し、実行する。

 

…とはいえ、人間として肉体を持つ限り、あらゆる苦しみから解き放たれるのはとても難しいことでしょうね。すくなくとも、わたしには難しい。

 

苦しみって、幻想であり、自分の命への執着ということだと思うので。

良い学校よい会社へ! と望むのは、けっきょく、その道を選んだほうが生き残りに有利であるという世間知があるからです。よく生きていきたいのです。何者からも脅かされることなく。

よい地位についているほうが、敬いをもって接してもらえる確率が高いでしょう。地位は武力です。(まあ、幻想なんだけど)

逆に、わたしがかつてやっていたニートとかは、世間からするとあんまりよく思われてないんじゃないかと思ってしまいます。実際はどうかわかりませんけどね。

いまのわたしも、ニートだったわたしも、精神的な不調を抱えていたわたしも、幻想を外してしまえば単なる同じ人間です。なにもかわりません。

でも、その時々にやっていることやっていないことで自らを規定し、評価し、裁くことさえします。

幻想は分断を招きます。いまの、きちんと正社員として働いている自分を善しとするのなら、働きもせず日がな一日ゲームして昼夜逆転していたわたしは悪となるでしょう。この状態は『間違いで、正しくない』から、改善しなくちゃってわけですね。

逆もまた然り。会社員であることを、ただただ社会の歯車としてこき使われている不毛な存在であり悪であるとするのなら、一日中大好きなゲームをしている楽しい状態は善となるでしょう。

 

絶対的な善も悪もない。

ただ、自分のための物語を創り出すことはできます。

ひょっとするとニートしているときに味わった楽しさむなしさが、わたしを支えてくれいているのかもしれない。

いまの規則正しい生活がわたしの精神を鎮めてくれているのかもしれない。わずかでも、自分の仕事が世の中の役に立っていると思えることも。

 

その時々に得られたものに目を向け続けよう。

 

この世には確かなものなどひとつもありはしない。

だけど、この世にはすべてがあり、余すことなく与えられています。

 

人生を選ぶのは自分自身です。

 

…取り留めなくなった!

 

では、また。