晴れても曇っても雨降っても

目標を探すのが目標。そんな日々。

【日記】課題の分離②

こんばんは!

 

寒い。お茶の飲みすぎでトイレが近い。

ああ、悪循環。

そして、あんまり考えがまとまりません…。

自分が得た感銘を、ほかの人に伝えるって難しいなぁ。

 

でも! 今日も『7つの習慣』ではなく、『嫌われる勇気』、つまり、アドラー先生のお話をさせていただきます。

 

まあ、断るまでもなく、こういう考え方がある、と言うだけのお話で、これが正解! とかそんなことを言いたいわけではありません。

 

ただ、これから公的成功の部分に入っていく中で、『自立』は必須なのですが、そうなると、『影響の輪』に力を入れなければならず、そのためには『自分がコントロールできるモノ』と『自分がコントロールできないモノ』をはっきりと分ける必要があるのです。

 

その理解に、アドラー先生の『課題の分離』はすごく良いな、と思ったため、書いております。

 

では、行ってみよう!

 

昨日も書いたのですが、 他者から嫌われる可能性、他者から承認されない可能性、そのコストを支払わなければ、自分の生き方を貫くことはできません。

 

だからと言って、悪行を勧めているわけじゃありません。まあ、ただ、自分の人生を真剣に考えたうえで、課題を分離した上でもそうしたいと欲したのなら、それを止められるものはないでしょうけど…。

 

と言うより、これはわたしの個人的な疑問なのですが、いわゆる非行などの行為って、その行為自体が楽しいんですかね? わたしが思春期こじらせていたとき、非行に走るというのも選択肢に上がりましたが、結局、自分のためにならないと思い、却下しました。

わたしはほんの幼児の時分から、利己主義・点数主義? なところがあるので、これから社会に出るのに、受け入れられにくいような行為をするのは得策ではないと判断したのです。マイナスを背負いたくない、という気持ちがあったんです。

まあ、それはどうでもいいですね。

 

『課題の分離』とは、早い話が、「だれが終局的に責任を負うのか?」です。

 

よく例えに出てくるのは、子どもの勉強です。親は子どもに勉強させたくて、叱ったり怒ったりご褒美をあたえてみたりしますが、これはアドラー先生の言う、『介入』です。

 

子どもが勉強しなかった場合、その最終的な責任を取るのは、いったい誰か? 

それは子ども自身です。親は、どんなに子どもを思っていようが、結局、他者です。

勉強したことで得る利益も、勉強しなかったことで得る不利益も、子ども自身が被るものです。

 

ただ、人生の先輩であり、勉強をすることで得られるものを知っているから、だから子どもに勉強をしてほしいと思うのなら、そのことを伝えて、そのうえで子どもに選択させる。

「勉強すること」を押し付けないのであれば 、そういう働きかけはむしろ良いことだと思います。そういう親子の会話ができる、ということのほうが素晴らしいんじゃないかなと。たぶん、子どもはいろいろと理屈をこねますが、それでも、親が自分のことを思って言ってくれている、と思えば、勉強するしないはともかく、自分の人生に思いをはせるんじゃないかな。

あ、もちろん、本当は自分(親)の世間体のためだけど、いかにもお前(子ども)のためを思って言ってるんだ、という恩着せがましさがバレると、最悪な事態になると思いますけどね。

 

そう、人は、良かれと思って、自分が正しいと思うからこそ、他者に『介入』してしまうんです。

人と話していて、「わたしは正しい、この人は間違ってる!」そう思ったことがあれば、「この間違いを正したい!」と思うこと、ありませんか?

 

わたしは結構あるんですが、アドラー先生のお話を思い出して、「ちがう、これは介入だ。わたしの課題じゃない」と言い聞かせてます。

 

でもね、けっこう難しいです。もう、反射的にそう反応する癖があるんでしょうね。

他者に介入しない。

他者に介入させない。

とてもシンプルな理論ですが、実践は難しいです。

 

ん~、そしてうまくまとめられませんでした!

まだまだ理解できてないんだなぁ。

がんばろう。

 

また明日!