晴れても曇っても雨降っても

目標を探すのが目標。そんな日々。

【日記】明鏡止水を目指す

こんばんは!

 

暖かくなったり吹雪いたり、揺り返しがすごいです。

最近、とみに車の運転をする機会が増えて、なんだかちょっと、運転技術が向上している気がする…!

車を購入するきっかけはいまの職場への異動なのですが、すごくありがたく思っています。でも、異動が分かった時には「うそだろ…_| ̄|○」と思ってたのだから、人生、どう転ぶかわかりませんね。

自分にできることが増えるのは、とてもうれしいです。

 

さて、今回もメンタル系のお話です。長くなりました。

わたしの個人的な感想ですので、違うなぁ合わないな~と思ったら、それはそれでよいのです。

わたしがこの記事で書きたいのは、そういう正直な気持ちをそのまま受け止める姿勢のことなので。それに、わたしの解釈なので誤っていることも多々あると思います。

 

どこから書いたらいいのか、ちょっととっちらかった文章になるかもしれませんが、お付き合いいただける方はよろしくお願いします。(あれ? いつもか…)

 

ちょっと遠回りになりますが、わたしが精神的不調を抱えて精神科にかかったころから振り返りたいと思います。

正直、20年ほど前なのですべて克明に記憶しているわけではありませんし、ナチュラルに記憶を改ざんしている可能性もありますが、『いまのわたし』の記憶であることは違いありません。

 

さてさて、当時、わたしは身体的な症状に悩まされていました。だから、最初にかかったのは精神科ではなかったです。でも、どうにも原因もわからないし、改善もしない。そこで、こういうお医者さんがいるよ、と、『精神科』を勧められたのでした。

 

高校生だった私にとって、『精神科』にかかるというのは、言っちゃあなんですけど、

「人生終わったな」という絶望感でいっぱいでしたね。

 

今は心療内科とか、もっとライトな感じのところもありますが、その当時はそんなのは都会にしかなく、すごく恥ずかしかったんだよなぁ。

 

でも、そこで見てもらって、心身症神経症、いわゆるヒステリー症状というものだと伝えられました。

ヒステリー症状というのは、金切り声で泣きわめくとかじゃなく、内面の葛藤をうまく心の中で処理できずに、身体のほうに症状が出てしまっていることなのだそうです。

診てくれたおじいちゃん先生が言うには、「あなたにとってはとてもつらいことだと思うけど、症状は軽いよ」とのこと。

でも、つらくてつらくて仕方なかったわたしにとっては、症状を抑えてくれる薬こそが大事で、おじいちゃん先生の言うことなんてほぼ聞いてなかったですね。

自分の内面を他人に打ち明けるなんて、その当時のわたしにはできませんでした。それは、恥ずかしいとかみっともないとかもありますけど、そもそも、自分の内面自体が良くわかっていなかったように思います。

まあ、もしわかっていてもプライドが邪魔してなにも言えなかっただろうけど。

おじいちゃん先生の元へは、薬をもらうためだけに通っていましたが、必ず雑談させられました。(←言い方)

 

繰り返し言われていたのは、おそらく、

「あなたはおかしくなんかないよ」

ということだったと思います。

 

治療する側ではあるけど、自分にだってこういう失敗や不安があったりするんだよ、それがいまちょっと、あなたは強めに出てしまっているだけなんだよと。

この『症状』さえなければ! と思っているかもしれないけど、それは、

あなたのこれまでの人生の上で必要なものだったんだよ。

あなたは、自分がオカシイ人間だからそうなったのではないかと恐れているだろうけど、それは違う。

あなたはとてもまともだからこそ、苦しんでいるんだよ。

 

そのころのわたしはいつも、「間違ったことを言っていないかしていないか、おかしなことを言っていないかしていないか」と戦々恐々としながら自分を厳しく監視し、『間違ったこと』をしないように必死に抑えていました。

それなのに、こんなおかしな症状に見舞われて、もう、筆舌に尽くしがたく自分自身を嫌悪していましたが、「あなたはとてもまともだよ」と言われた時はさすがに瞼が熱くなりました。

『間違ったことをしない』外向きのわたしだけではなく、『症状』を呈してまで苦しさを訴えている『内なるわたし』がいることを体感できたとでもいいますか。

おそらくですが、外向きのわたしはもちろん、その『内なるわたし』にも語り掛けてくれていたんでしょう。妄想かもしれないけど。

丸ごとの『わたし』を肯定してくれていたように思います。

 

他の患者さんにどう対応しているのかまではわからないですが、もちろん『患者』として診ているけど、それだけじゃなくて、『人間』として見てくれた感じがします。『問題をかかえた患者』ではなくて、『困っている後輩』に人生の先輩がエールを送ってくれたというような。

実際は、すごい専門知識を駆使した治療だったのかもしれないけど、でも、どうしても、おじいちゃん先生の雑談としか思えないんだよなぁ。

だって、実をいうとわたしはそのとき下された診断名も覚えてないんですよ。確かこんなんだったなというおぼろげな記憶。たぶん、最初に教えてもらっただろうけど、そのあとはずっと「最近どう?」からの雑談だったので。治療って感じがなかった。

 

「自分(おじいちゃん先生)には言えなくてもいいから、あなた自身の気持ちを表現していくと良いよ」とか、「薬は癖になるから、必要なくなったとおもったら飲まないようにしてね」とか、わたしのその後に影響を及ぼす言葉も、すごく何気ない会話の中で出てきていました。

 

結局は、わたしが引っ越すことになり、数か月のかかわりでしたが。

まあ、ぶっちゃけるとわたしのためを思って言ってくれていた言葉の数々も、

「コイツは医者になれるくらい優秀でめぐまれているから、わたしを見下して偉そうに言ってるだけだ。わたしの苦しみをわかるわけがない」

と、バッサリでしたけど。(笑)

次にかかったお医者さんは、ものの見事に薬を出すだけで、1分で診療が終わってました。あの頃は、そのほうがありがたかったけどね。

 

その後、通信制大学で心理学を勉強して、心身症といえば、フロイト先生! ということを知り、精神分析(ひとの心は意識と無意識から成り、無意識の囚われが心身に影響を及ぼすという考え方に基づき、無意識を分析していくもの)の考え方に傾倒しました。

「無意識に意識を有らしめよ」はいまもずっと、とても好きな言葉です。

 

ただ、自分で自分の精神分析するのはいいのですが、いわゆる、カウンセリングで分析されるというのは、わたし、ぜったいにイヤで。

だって、自分でやったほうが早いし。自分のことを赤裸々に語るなんてしたくないし。(こんなブログ書いておいて、まあアレですけどね…)

もちろん、これはわたしの考えであって、個人の感想ってだけです。

他人の考えを混ぜ込みたくなかったんです。どうしても、迎合したり反発したりして、自分を見失う気がして。まあ、それ自体も治療の過程なんですが。

そもそも、他人が分析したものを自分のこととして受け止められる気がしなかったんです。わたしは納得しないだろうなと。中途半端な知識があるので、かなり防衛的になるだろうとも予測しました。

それに、なにかある度に他人に分析してもらわなきゃいけないって、不便だなぁと。

だから、精神分析は好きですが、精神分析的カウンセリングは受けるつもりはありませんでした。

まあ、わたし自身がこういう考え方の持ち主であったため、カウンセラーになりたいと思ったことはないです。そも、自分自身を救うことで手一杯で、他人のことなんて考えてなかったというのが正直なところですが。

そんななか、自分を救うためにいろいろ心理系の本を読んでいて、カール・ロジャーズさんの来談者中心療法(クライエント中心療法)を知ったのです。

このセラピーを受けたいというよりは、この療法において求められるセラピストの三要件を習得したいと思ったんです。

わたしがわたしにとって最高のセラピストになるために。

 

来談者中心療法(クライエント中心療法)におけるセラピストの三要件は以下の通りです。

・無条件の肯定的関心

・共感的理解

・自己一致

 

このなかで、もっとも重要だと思っているのは、自己一致です。

たとえば、セラピストが今日会う予定のクライエントに対して、「イヤだなぁ」という気持ちを抱いているのなら、この「イヤだなぁ」という気持ちを自分に対して隠さない、ということです。ここで、「いや、そんなこと考えちゃいけない」とか「気のせいだよ」などと自分に対してごまかしをしないということです。

わたし的には、「無意識に意識を有らしめよ」と同じことでした。

 

自分自身のセラピストになるのであれば、無条件の肯定的関心も共感的理解もさほど難しくはないだろうと思いましたが、自己一致だけは、ほぼ自動的に自分をごまかしている自覚があったので、これは取り組み甲斐があるなと思ったのです。

自己受容とも似ていますね。

明鏡止水とも思いました。

明鏡止水とは、邪念や疚しさがなく、澄み切って落ち着いた心の状態のこと。

イメージとしては、無意識の海の底までも澄み切って、なにひとつごまかしも隠し事もない状態。

ま、そんな状態になることは難しいでしょうが、ずっと目指しています。

 

来談者中心療法では↑のようにセラピストの態度が重要になってくるのですが、なんだか、あのおじいちゃん先生は、この要件を満たしていたのでは? わたしは、知らぬ間にセラピーを受けていたのでは? と思ったのです。

 

事実はわからないですけどね。

 

ひさびさにカール・ロジャーズの名前を見聞きして、思ったことを書きました。

 

では、また。