【日記】自立・自己受容を考える
こんにちは!
とっくに年明けましたね、今年もよろしくお願いいたします。
良い年になるといいなぁ。
さて、ご無沙汰していたのは、疲れていたからです。
雪疲れです。
かなりの大雪に見舞われた地域(ぶっちゃけド田舎)に住んでいるので、大変でした。控えめに言っても、地獄でした。
これまでは車持ってなかったので、雪かきなんてしたことがなかったのです。
車を出すためには雪かきが必須です。しかも、今年はわりと雪が多い。まあ、仕方ないんですけど。いやほんと、疲れました…。
でも、雪かきを終えて、車を出せる状態にできたとき、
「ああ、はたらくっていいな~」
と思うのだから、まあ単純なんですけどね。
さて、今回もメンタル系のことを書いていきます。
単なる個人の感想です。ご了承くださいね。
最近、『嫌われる勇気』をじっくりと読み直してみたんです。
そこで、前とは違った気持ちになったので、そのことを書きたいなぁと。
たぶん、一年前くらいにはじめて読んだのですが、それから一年で、違う感じ方になっていました。
アドラー先生といえば、『課題の分離』です。
他者の課題に介入しない、他者に自分の課題に介入させない、『境界』の基礎ともいえるものです。しかし、これは入り口にすぎず、目指すゴールは『共同体感覚』です。
『共同体感覚』に至るには、自己受容と他者信頼に根差す、『他者貢献』から得られる『貢献感』を感じられる必要があるそうです。
自己受容というのは、まずは自他の区別、境界を設け、そのなかで自分にできることに注力する。イメージとしては、自分の領土に種をまき、その果実を受け取る。ただそれだけです。
その『自分』というのは、『素晴らしい、望ましい、優れた』自分ではなく、弱々しい自分、憎しみのある自分、妬ましく思っている自分、他人よりも劣っている(と思い込んでいる)自分。「あるがまま」の自分です。
目を覆いたくなるほど悲惨な、この『自分』で生きていく覚悟を決めたときに、自己受容が始まるのではないかな、と思います。
『素晴らしい、望ましい、優れた自分』で生きようとしたとき、それは『承認欲求』を追い求める道に足を踏み入れたことになるでしょう。
アドラー先生は承認欲求を認めません。それは自由ではないからです。おそらく、課題の分離ができていない状態ということなんじゃないかな。
どういうことかと言えば、『承認欲求』とは『他人の承認』という果実を求める気持ちです。それは他人の領土の果実なのです。わたしのモノではありません。
『素晴らしい、望ましい、優れた自分』であったとしても、そのことで他人から果実を受け取りたいと思わないのであれば、それはそれでいいのです。
『素晴らしい、望ましい、優れた自分』であること、そのこと自体の果実を自ら享受し、それで満足できるのであれば。
というより、おそらく、他人から真に『素晴らしい、望ましい、優れた人』だなぁと思われる人は、『自分がどう生きたいか』を追求しただけで、他人の果実を追い求めた結果ではないのだろうと思います。他者の称賛が罵詈雑言に変わろうが、『自分が』どう生きたいかだけが大事なのでしょう。
主語が『わたし』の生き方、まさしく自立しているということですね。
わたしは、自己受容とは自立とほぼ同義なんじゃないかなと思います。この『わたし』で生きるという覚悟です。それは、孤独に通じるとも思います。
本当はもともと、人は孤独なものなんでしょう。
でも、ひとりきりで生きると宣言するには心もとなくて、誰かといっしょが良くて、頼りたくて、自分の責任を代わってほしくて、なにか確かなものにべったりとへばりついていたかった。
ここまで『自分』を放棄して、ドロドロに溶けて、なにが『自分』であったかもわからなくなったヘドロこそが、わたしに残された『自分』を取り戻す鍵なのです。
『自分』を取り戻すためには、孤独へ還っていかなければならない。
怒り、憎しみ、妬み、うらやみ、悔しさ、みじめさ、苦しみ、攻撃性、残酷さ。
その細い道をたどり、自分自身を知り、取り戻していく。
うむ、脱線しましたね。
次いで、『他者信頼』。
これは、正直、まだわかりません。というより、自己受容だってまだまだなわけでして。
たぶん、としか言えないですが、自己受容できれば、自然とその境地へ向かえるんじゃないかなと。
なぜかと言えば、自己受容できれば、『承認欲求』は消えます。
『承認欲求』の根底にあるのは、他者との競争、敵意です。だって、ぶっちゃけ「他人の領土から分捕りたい!」ってことですからね、承認欲求って。そして、同じ土俵に立っているのであれば、他人からも「お前の領土から分捕るよ!」と言われているのに等しい。
それは、敵ですよね。控えめに言って、常時戦争状態ですよね。
自己受容は、その戦争に終止符を打ってくれます。
自分の領土、境界を守り、自分の領土に蒔いた種から生る果実を受け取ることに満足していれば、他者と競争する必要も、戦う必要もなくなるわけです。
自他の区別、境界を設け、そのなかで自分にできることに注力する。その結果を享受することに専念する。
そうすれば、周りにいる人々は敵ではなくなるでしょう。
他者は自分の心を映す鏡と言います。
自分の心から敵意が消えれば、その時には、人々を『味方、仲間』だと思えるのかもしれません。
まだまだ『承認欲求』『競争意識』『敵意』の中にいるわたしには遠いことですが、その境地にたどり着きたいと思ったのです。
一年前には、「これまでわたしががんばってきたことは何だったんだ」「結局ひとりぼっちなんだ」「たどり着く先はそんなものか」と、むなしさでいっぱいだったな。
それが、今回は「みんなを味方だと思える日が来るのかもしれない」「自分の力で生きる、敵のいない世界って、それこそが完全なる自由なんじゃないか」と。
しかし同時に、『自分』が消えてなくなる気もしています。不思議ですが。
自立の先にあるのは、相互依存です。相互依存の主語は『わたしたち』であり、『わたし』は消えてしまうそうです。そういう知識があるからそう思ったのかもしれませんが。
なんというか、『傷』を中心に形作られたわたしが消える。そもそも、『傷』自体が消えてなくなるため、そこから生まれたわたしが消えるって感じ?
『敵意』も、自己受容・自立すれば消えてしまうものであるなら、『傷』も消えてなくなるということなのかな。
というより、本当は、そもそもそんなものはなかったというオチかもしれない…。
『敵意』『傷』、すべてわたしの錯覚であったなら、それが解かれて、その先にはいったいなにがあるのか。
一年前よりは、その先を見たいと思いました。
それは、ひょっとすると、自立に向けて頑張れているってことかな。
コヴィー博士の『7つの習慣』の、第1の習慣。『主体的である』こと。大前提のインサイドアウト。
これを知ったのも、一年ほど前ですからね。
じわじわ~と成長しているのなら良いな。
取り留めなくなっちゃったけど。
では、また。