【日記】嫉妬と恨みの鬼
こんばんは~!
一か月は置かない予定だったのに…。
お久しぶりになってしまいました。
年末ということで、ほんとちまちまやらなきゃいけないこととかがあって、なかなかブログを書こう! というほどやる気が起きなかったのでした。
(またどっぷりと娯楽小説にのめり込んでいたとも言います…)
漢方は続けていて、生理周期が伸びました! てきめんに効果があったので、ちょっと油断したのか、生活が乱れがち…。平日は11時までには寝てるのですが、休みの前の日とか、夜更かししちゃってます(-_-;)
夕べもね、1時過ぎに寝たし。
年末年始のお休みは、できれば規則正しい生活をしたい!
さて、タイトルですが。
これはわたし自身のことです。
わたしは昔から嫉妬深く、恨みを忘れないしつこいタイプなのです。他人と比較する必要はありませんが、「そんなことは忘れる」という人を見かけると、すごいなぁと思います。わたしには到底できないことなので。
とはいえ、嫉妬や恨みをぶちまけるというようなことはあんまりしません。というよりも、残念ながらできません。
そもそも嫉妬や恨みの感情を抱いていることを恥じているので、その感情をダイレクトに表出するということは難しいことでした。
嫉妬してる、恨んでると他人にバレることがなによりも恐ろしかったので。
「わたしにはそんな感情なんてありませんよ~」というアピールを必死にしていたのでしょう。怒り、攻撃性と同じくですね。
でも、ないわけないんだから、無理はそう続かなかった。
いや、無理を続けすぎたのか、あるいは、ようやく嫉妬や恨みも自分のものとして受け止める土台ができたのか、どうしても看過できない事態に陥りました。
中学からずっと仲の良かった友人が結婚・出産・家を購入すると聞いたときの苦しみはすさまじかったです。
いまなら、その苦しみは、「友人としてうれしい」という『祝意』と、「わたしの手に入れていない幸せを手に入れた」という嫉妬と「わたしよりも優れているとでもいいたいのか」という恨み、『呪い』との葛藤であったと思えます。
もちろん、友人には祝意だけを伝えました。
この呪いは、そもそもわたしが身の内で育て続けたものであり、友人には無関係のものなのです。この世の中で起こる現象に心をかき乱されるのなら、それは自分の内に原因がある。あらゆる感情のトリガーを引けるのは自分自身だけです。
もしも、このトリガーを他人が握っているとするのなら、わたしには自分自身に対しどんな対処も不可能ということになります。他人にしか、わたしを鎮めることはできないと、自分は自分に対し無能であることを認めなければならない。
それが嫌だったのです。だから、友人にはお祝いだけを伝えた。けっして、友人への優しさや愛情からそうしたわけではありません。
もしも他人に当たり散らすことでこの苦しみが取り除けるのであれば、相手が誰であろうと迷わずやったでしょう。(実際、このとき親に理不尽に当たったし(笑))
当たり散らしたって、ぜんぜん幸せじゃない。自分がもっと弱々しく、頼りなく思えて悲しいだけ。
だから、自分にできることをやってみる。
どうして嫉妬しているのか、どうして恨んでしまうのか。
それは決してあってはならぬものではない。わたしのすべてではないけど、わたしの大事な一部。
結婚、出産、そういう他人の慶事を呪っている。その気持ちをずっと見続けて、味わい続けて、最近ようやく腑に落ちたことがあります。
ぶっちゃけると、わたしがおそろしく受け身である、
ということ。
「結婚する」ことについて、わたしがまっさきに思うのは、「これで人並みに見てもらえる」であり、「出産」についても同じようなこと。
つまり、「他人からどう見られるか?」が嫉妬や恨みつらみの大元でした。
たぶん、わたしは結婚できたとしても、次に出産できなければ苦しんだでしょうし、出産したところで、子どもが「他人から良く見られる子」であることを意識的、無意識的に強要し、それが叶わなければ、やはり苦しんだでしょう。
「他人からどう見られるか?」「他人からどう評価されるか?」
これがわたしの行動原理なのです。
これを捨てるつもりはないですが、比重を変えていこうと思っています。
受け身の反対は能動。
・わたしはどう生きたいのか?
・わたしはだれが好きなのか?
・わたしはだれが嫌いなのか?
・わたしは仲良くなるためにどう行動するのか?
・わたしの幸福とは何なのか?
・わたしの幸福のためにできることはなんなのか?
評価されるために行動するだけの存在から、自ら評価し自ら行動する存在へ。
まあ、それをやったからって、結婚・出産できる保証なんてありません。
でも、『だれかに評価される』ことよりも、『わたしがどう感じるか』に重きを置く。
結局のところ、わたしがわたしを弱々しく頼りなく思ってしまうのは、『わたしがどう感じるか』よりも、『誰かの評価』こそが正しいとしてきたからです。
嫉妬しない、恨まない、怒らない、攻撃しない、憎まない。
優しくする、親切にする、大切にする、尊重する。
『誰か』が期待し望んだとおりの反応、行動。
でも、『誰か』なんて本当はいない。
それなのに『誰か』に、これだけやったのだから、認めろ、称賛しろ、幸福を与えろと要求し続けたのです。
無意味に叫び続けていたようなものですね。
自ら進んで空っぽになり、エネルギーを浪費し、どうしようもなくなっていく。
そんなおぞましいほどに受け身で、依存的なわたしからはじめる。
嫉妬する、恨む、怒る、攻撃する、憎む。
優しくしない、親切にしない、大切にしない、尊重しない。
これもわたしの人生に必要なこと。
内心の自由は絶対! ですから、心の中を自由に感じてみる。
べつに、それを必ず表出しなければならないわけじゃない。自分の気持ちを心行くまで味わって、そのうえでどうするのかを決めていけばいい。
で、間違ったなと思ったら、やり直せばいい。
友人の幸福を知って、嫉妬し恨み悔しがりみじめさに押しつぶされましたが、実際は、すでにずっと前から嫉妬と恨みと悔しさとみじめさで息も絶え絶えだった。それだけのこと。それを見て見ぬふりはやめろと教えてくれた。
目を背け逃げようとする限り、嫉妬と恨みの鬼はわたしを追い詰めますが、わたしの大切な一部分であると認めさえすれば、それは強力なエネルギーとなります。(というか、すでに詰んでることを教えてくれてるだけなんだけどね)
真にわたしにとって『正しい』方向にエネルギーを注いでいける。
例えば、寒い夜に温かいお風呂にゆっくり浸かる。疲れていたら、早めに眠る。
かかとのガサガサをやすりで磨いたり、冷えると思ったらホッカイロを惜しみなく使う。いまは冬なので思いつくのはこういうことですが。
わたしがいままでおろそかにしてきたことです。
これまでやってこなかったことが信じられないくらい、心も体も満たされる行動でした。
「あ~、わたしはわたしを幸せにできるんだ」と実感させてくれます。
これぞ、自己効力感でしょう。(おおげさ)
他人から「そんなのくだらない」と評価されるかもしれません。それを否定はしません。でも、わたしはこの幸福感と自分の能力とを信じます。
わたしがわたしを信じられればそれでいいのです。
たったそれだけのことだったのだなと、ぬくぬくしながらかみしめる年末でした。
いやもう、あったかいお風呂サイコー!
と〆させていただきます。
では、また。