晴れても曇っても雨降っても

目標を探すのが目標。そんな日々。

【日記】課題の分離

こんばんは!

 

 寒いです! ほうじ茶おいしい。

あ~、あったかい飲み物がおいしい季節ですね。もう来週は12月なんだな~。

 

さて、今日は、アドラー先生の『課題の分離』について書いていきたいと思います。

『影響の輪』を意識し、自分のコントロールできる事柄にフォーカスして、自分の影響の力を押し広げていく。これを読んだとき、アドラー先生の『課題の分離』を思い起こしました。

 

『嫌われる勇気』では、『課題の分離』が対人関係の 入り口とされていました。

人生の悩みは対人関係の悩み。

ぶっちゃけ、タイトル通りで、『嫌われる勇気』を持つことができれば、自由を手に入れることができます。

それは、『他人の期待のなかに生きない』ことであり、『他人に自分の期待通りに生きることを強いない』ことです。

 

『自分』と『他者』、それぞれに取り組むべき課題に取り組み、『他者』からの介入を許さない。自ら『他者』への介入を許さないということです。

 

アクセス数のことを例にとると…。わたしはもちろん! いっぱいアクセス数があればうれしいです。逆に、アクセス数0なら、悲しくなります。

 

いま書いているような、精神論や自己啓発の話題はどうやら受けがよくないらしい…。じゃあ、受けのいい話を書いてアクセス数を稼ごう! と思ったとします。

 

わたしは、精神論や自己啓発なんかが好きですが、見てくれる人がいなければ意味がないので、あんまり興味の沸かないモノを題材にブログを書くことにした、としましょう。

 

その試みはひょっとするとうまくいって、アクセス数を稼ぐことができるかもしれませんが、常に、『みんな見てくれているか?』『みんなが見たいものは何か?』を考えずにはいられません。自分を捨てて、他人の期待を生きることになります。

 

そしてもう一つ、他人の期待を生きていると、他人にも、自分の期待通りに動いてほしいと思わずにはいられなくなります。

つまり、「みんなが見たいものを書いているんだから、見返り(アクセス数・あるいは好かれること)を期待するのは当然!」

期待外れだと恨みたくなりますよね。「こんなに頑張ったのに…」と、意気消沈し、さらに『他人の期待』を生きることになるかもしれないです。

 

それでは、『課題の分離』が目指す、『嫌われる勇気』を行使するとどうなるか。

 

わたしは自分の好きな精神論・自己啓発を語ります。読んでくれる人はいないかもしれません。ずーっとアクセス数0かもね(´;ω;`)ウゥゥ

わけのわからないことばっかり書いている変人、とか言われちゃうかもしれませんね。でも、わたしがなにを書くのかはわたしの、わたしだけの課題です。

そして、それを読んだ人がどう考えるかは、その人だけの課題です。 

 

そりゃあ、できれば「おもしろい!」と思ってもらえるのが最高だけど、「つまらない」「こんなのたいしたことない」「わけわかんない」と言われることも受け入れます。というか、仕方ないです。わたしには他人の課題に介入することは許されませんから。

 

でも、わたしが書きたいと思い続けるのであれば、それを止めることができるものは、わたし自身以外に居ません。

 

これが本当の自由で、『自由とは他者から嫌われることである』と表現されていました。 

 

他者から嫌われる可能性、承認されない可能性、そのコストを支払わない限り、自分の生き方を貫くことはできない。

 

でも、そうすると、自分勝手に自己中心的に生きることになるのでは? と思いますよね。

 

そう、それはね…。

 

 

 

 

 

 

今日は遅くなってしまったので、また明日!