【雑記】2022に思ったこと
たいへんお久しぶりな更新になりました。(11か月ぶりくらい?)
日本の片隅で、ひっそりと生きてました。
めっきり寒くなりましたね。毎朝、キンキンに冷えたハンドルを握る手が痛かったです。
でも、仕事おさまったぞー!(大歓喜)
2022年は、わたしにとってなかなか波乱でした。
でも、全て世はことも無し。
いや、まだ2022年終わってないけどさ。
「うわーどうしよう!」と思うようなことも、いまは落ち着いているし、自分自身も落ち着けているから、人間てのはどうにも頑丈だと思います。
ひさしぶりのブログですので、いつもどおり思いついたまま書き連ねようと思います。お付き合いいただけるとうれしいです。
さて、まずは今年抱いた野望から書いていきます。
ズバリ、マンション買いたくなりました!✨
今年新しめのお家に泊まる機会があったんだけど、
めちゃくちゃ快適だった!
築ウン十年のアパートに10年以上住んでいて、特に不満もないけど、ああいう新しめのお家良いなー! と思ったのがマンション買いたい最大の動機。
冬なのに寒くないって、すごくないか。(反語)
うちはたぶん、外気とさほど変わんないぞ(笑)
それでも適応して生きてこられたのだから、人間てやっぱり頑丈ね。でもそろそろ適応力の限界に挑戦するのはやめて、快適な空間で生活してみたいわぁ。というのが本音。
そして、いまより広い家でシルバニアファミリーで遊ぶ。
わたくし40代に突入し(たのがいつかはヒミツ☆)、いろいろと考えました。生涯独身も見えてきたし、ローン組むなら今でしょと。
2021年末で総資産が1,704万円で、2022年末には1,850万円にするのが今年の目標でしたが、達成が難しそう…。投信が下がりまくってますよ。なのはまあ仕方ないとして、おそらく数年あれば2,000万円到達しそうです。
わたしには実家(持ち家)というものがないので、終の棲家は自分でなんとかしなくちゃいけないのはわかっていました。なので、若いころからお金に対する焦燥というか、ざっくばらんに言って執着があります。
ずっと家計簿つけてるのも、保険に入ってみたり、投資してみてるのも、すべてはそのあたりから来ています。(親がまったく貯金できない族だったことも原因)
できればローンを組まず、にこにこ現金払いで購入したいものですが、残念ながらそこまでの資産はありません。
どれだけ頭金に捧げられるかは、今後の貯金にかかっています。ですが、わたしは特に節約家でもないし、やる気もないし(オイ)なので、まあゆるくやっていきます。
これまでもあんまり考えずにやってきたからな。いや、執着あるし考えてるつもりなんだけど、夏休みの計画と同じで計画立てるのは楽しいんだけど、けっきょく計画通りに実行できてない。貯蓄型保険だって、よくよく考えて良かれと思ってやってあの結果だったわけですし。
野望としては、13年での完済。住宅ローン控除が終わったら繰り上げ返済したいんだよなあ。完済が70歳とか80歳とか、怖すぎる。
それ言ったら、13年後だって、明日だってどうだかわかんないんだけどね。
ま、無理なら無理で、別の道を探ればいいのさ。
さて、お次は今年出会ってよかったもの。
般若心経
法事でお経のパンフレット?みたいなものをもらって、その中に般若心経もあって、まあ正直、読めないし意味も分からなかった。
般若っていうくらいだから、怖いことかいてあるんかな、くらいに思ってました。(般若面がくわッとしてるから。語彙力)
般若面(女性の憤怒と嫉妬を表す)とは違って、仏語での般若とは悟りを得る智慧のことだそうです(グーグル先生が教えてくれた)。同字異義語が極まってるわ。
現代語訳をパッとまとめると(いろいろ好きな解釈をつまみ食いしてます)、
観音様が智慧の完成に向けて修行なされた時、この世は一切が空(実体のないもの、うつろうもの)であるから、あらゆる悩み苦しみもまた空(実体のないもの、うつろうもの)であると見極められました。(なんかいろいろ例示してくれる。中略)そのため心は間違った考えや妄想から遠く離れて、平安の境地にあります。
さあ、智慧の完成の言葉を唱えましょう。
「智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ。完成された完全なる智慧よ、悟りよ、幸あれ」
以上で、完全なる智慧の神髄の教えを終わります。
って感じらしいです。
う~ん、かみ砕いて言えば、「この世はすべて空だよ」ってことでしょうか。これが、十二縁起での無明を消滅させる智慧ってことかな。
それが腑に落ちないから、人間は悩み苦しむわけですが。
しかし、その悩み苦しみも実体などなく、うつろっていくもの。
いまなによりも確かであると思えるこのわたしの身体でさえ、この瞬間にもうつろっていくもの。死ぬまで細胞分裂を繰り返し、二度と同じわたしであることはない。そして、わたしの思い通りとなることもない。命とは、ある日突然与えられ、ひとときもとどまることなく変わり続け、ある日突然終えるもの。
この喜びも悲しみも、愛おしさも憎しみも、うつろっていくもの。わたしの妄想、思い込みから生まれたもので、ほんのちょっとした外界からの刺激で移り変わっていく。このうつりかわりゆく心を制御することはできない。制御する必要もない。
うつりかわる世界で、うつりかわるわたしと、生き続けよう。
息するように当たり前に、「これが正しい、あんなの間違ってる」といつも思っていることを知ること、常に物事に囚われていることを知れば、囚われから自由になれる。自由でいられることが心の平安につながる。
でも、次から次へと囚われが出てくるんだよね。だって、人間は自分が正しいと思わなければ生きていけない弱い生き物だから。少なくとも、わたしはそう。
わたしの正義、わたしの正しさすら手放せる境地、それこそが心の平安。今はそう思う。本当には正しいも間違いもない、智慧のないわたしには「正しい」ことはわからない。愚かなわたしは、わたしなりにしか生きられない。
完全なる智慧の神髄の教えは、「絶対的なものなどない」と言いながら、「これは絶対的な救いの言葉である」と説く。絶対的なものなどないからこそ、絶対的な救いがこの世にはあるという矛盾。般若心経ですらも絶対ではない。でも、だからこそ常に救いはある。
わたしの信じる正しさをきちんと受け止め、消化し、手放して、この世に満ちる救いに身をゆだねましょう。いえ、すでに救いの中にいることを思い出しましょう。
それができるのはほんの一瞬で、また心は千々にかき乱れるけど、大丈夫、救われるのは確定だから。
だからわたしは自信をもって、
マンション購入計画を練ろうと思います。
この執着も何かの御縁。お金大好きなのもわたしの大切な人生の一部だからね。
執着も味わい尽くして、楽しんでいきたい。
では、また。