【日記】『誰か』を許すとは、『自分』を許すということ
こんにちは!
昨日はひさしぶりに甘いものを買いました。
子どもの日ですので、柏餅です。
最近は自分のためだけのお菓子を買うのを控えていたのですが、ついつい…。
やっぱり、季節もの?はおいしいですね!
さて、今日はメンタル系のお話です。
『7つの習慣』で取り組んでいること(早寝早起き・腹八分目)は、もちろん取り組んでいるのですが(できてるとは言ってない)、なにか書けるほどの変化や大失敗もなく(普通の失敗はたくさんある)、まあ、だいだい普段通りです。早寝が…!
なので、最近、ちょっと考えたことを書きたいと思います。
これは単なるわたしの考えですから、まあ、こんなこと考えている人間がこの世にはいるんだな~くらいに思ってもらえるとありがたいです。
ものすごく長くなりましたが…。
コロナがニュースをにぎわす前、(1月くらい)に、飲み会に参加するため、職場の同僚から車で送ってもらう機会がありました。
で、それがちょうど道が混む時間帯に当たってしまったようで、遅れそうになったのですよ。
運転してくれている同僚はとても申し訳なさそうにしていて、わたしは同乗していたほかの同僚と一緒に「送ってくれるだけでありがたい、遅れたってどうってことない」と言い、ほんとうにそう思っていたのです。
だって、歩きなら完全に遅刻するし、遠すぎて疲れるし、それに比べたら快適な車に乗せてもらえて、ほんとにラッキーだったんですから。
まあ、結局は車を運転してくれた同僚の人徳か、ドライビングテクニックか、ちゃんと定刻よりも早くに着いたのですが。
で、わたしこの時に、「自分、変わったな~」と思いました。
なぜなら、ずっっっと昔にこれと似たようなシチュエーションがあって、その時は表面には出さないように努めていたけど、
心ン中じゃあ、罵り倒してました
からね。
あはは、さいてー。
もう本当にね、あきれてしまうけど、そういう時期があったんです。
いまは、そんな風に思わなくてすむようになって、ほんとうにうれしく思っています。
他人の好意に胡坐をかき、しかも、好意をもってしてくれたことを結果だけ見て責め立てようとしていた。
まあ、さすがに表面上は文句言ったりしなかったですが、心の中は不満でいっぱいでしたね。「こいつのせいで遅れそうになった!」ってね。
「自分のためになんの見返りも求めずしてくれること」がどんなにありがたいことか、わかってはいました。
わかっていても、不満・恐怖のほうが強かった。
「遅れること」が許せなかった。その原因は、運転している人間にある、と思わずにはいられなかったんです。
それはどうしてかといえば、
自分に自信がなかったからでしょうね。
たぶん、今ならちょっと遅れようがどうってことないと思えることが、
かつては「ぜったいに自分には許されないこと」だと思い込んでいたのでしょう。
そう、わたしは車を運転してくれた人を罵っていたのではなくて、本当のところは、自分自身を罵っていたのだろうと思います。
わたしは攻撃的な人間の代表というわけではないですけど、他人に対して攻撃的になるとき、他人を攻撃したところで気分が楽になることはありませんでした。
攻撃することで嫌な気分がすっきりする、という人もいるのでしょうけど、わたしの場合は違ったんです。
嫌な気持ちはなくならなかった。
わたしがかつて怒りの矛先にしていた親に対して、思っていることを激しくぶつけたことがあります。それですっきりしていたら、ひょっとすると、それからも他人に攻撃することは正しいことだと思って、ガンガン攻撃に転じていたかもしれません。
ですが、結局は、わたしは親に攻撃を加えたところで、まったく救われませんでした。気分は晴れませんでした。
言いたいことを言わずに我慢してきたから、言いたいことを言ったら、自分はきっと救われると思っていたけど、実際はそこまででもなかった。
言えたことは確かに良かったけど、それは、たぶん、自分の意思を表明できたこと、自己表現できたことが良かったんでしょう。
攻撃することが目的ではなかった。自分自身を表現したかった。伝えたかった。
やられたからやり返したい、傷つけられたから傷つけ返したいんだと思っていたけど、そうじゃなかったとわかった。
だから、イラっと来たときは表面上、怒りの矛先にしている人ではなく、自分の内側に問いかけるようになりました。
だいたい、どうってことない些細なことでイライラするのですが、掘っていくとほぼ、同じようなことが原因でした。
・わたしが責められる
・わたしが悪く思われる
・わたしに価値がないように思われている
・わたしを大切にしてくれない
・わたしを最優先にしてくれない
自分のことしか考えてません。
まあ、当たり前ですし、とくに変だとは今は思いません。
昔は、こんなことを考えてるなんて! と無意味に自分を責めて悦に入ってましたが。
今では、
・わたしが責められる⇒いや、そこまで他人はわたしに興味ないよ
・わたしが悪く思われる⇒そんなに他人は暇じゃない
・わたしに価値がないように思われている⇒だから、そんなに他人は暇じゃないって
・わたしを大切にしてくれない⇒じゃあ、自分で自分を大切にしよう
・わたしを最優先にしてくれない⇒じゃあ、自分で自分を最優先にするよ
わたしは常に自分が自分の評価にしか興味がなかったために、「他人から○○される」という超受け身思考だったんです。
アドラー心理学の課題の分離です。他人の考えることなんて、わたしのコントロール外です。そもそも、他人がわたしをどう思うかなんて、本当には知り得ないこと。わたしの妄想です。
自分の妄想で自分を脅かすくらいなら、そもそもそんな妄想は手放したほうが良い。他人の真実を考えるだけ無駄だし(他人のためにものを考えるな、ではなくて、結局、真実はわからないからです)。なら、自分の真実を見つめたほうが良い。
なので、「他人がわたしを○○だと思ってる!」という思考が浮かんで来たら、
はい、妄想~! 考える価値ナシ!
と、切って捨てるようにしています。
これをやっていく過程で、だんだん、怒られることが怖くなくなっていきました。
なぜなら、
他人の怒りもほとんど妄想がベースだ
と思うようになったからです。わたしがよっぽどのことをしない限り。
ただただ文句を言いたいだけのクレーマーは、まさしくですね。
あるいは不満をぶつぶつこぼすような人は、どうすればいいのかわからない不安があるのだな~とか、あ、このひとは「べき・ねば」に自分がとらわれているから、他人にも「べき・ねば」でしか接することができないんだろうな~とか、妄想してます。
コイツの怒りとわたしは無関係
ですから。
逆に言えば、
わたしの怒りと目の前の人は無関係
ということです。
わたしは完璧な人間ではないので、ひとに迷惑をかけますし、いやな思いもさせているでしょう。でも、わたしは、そんな自分を許します。
わたしの周りの人たちも、完璧な人間ではないので、わたしに迷惑をかけたり、嫌な思いをさせることもあるでしょう。でも、それはお互い様です。許します。
自分を許すのが一番難しかったので(まだ許し切れていない部分もあるかもだけど)、自分を許せれば、よっぽどの人間でなければ他人を許すことは可能だと思います。
だって、まず、自分を許すには『完璧ではない』 『他人に迷惑をかける』『嫌な思いをさせている』自分を認めなければならず、わたしは他人から認めてもらえるように『完璧』で『他人に迷惑をかけない』『嫌な思いをさせない』ことを、それこそ必死で頑張ってきたわけですからね。
でもそれは、無理! 完璧な人間になれなかったよ!
という、自分に対する敗北宣言に等しかったです。
だから、わりとつらい人生だったのかな。負けを認めるまで、自分で自分を責め続けるってことですからね。そりゃ、心もすさむわ…。
まあ、敗北を認め、自分を許すことが絶対的な正解とは思いません。わたしにとってはこれはとても良い選択肢だったと思うけど、そうじゃないひともいると思います。
ま、人生いろいろですね。
では、また。