晴れても曇っても雨降っても

目標を探すのが目標。そんな日々。

【日記】むなしさを考える①

こんにちは!

 

ずいぶん更新が滞ってしまいました。

特筆すべきことがあったわけではなく、いくつか記事は書いたりしたのですが、「なんか違う…」と、お蔵入りにしてました。

 

で、ようやっと「これだ!」と思えたのが、わたしが見て見ぬふりをし続けていた

『むなしさ』です。

 

そんなわけで、今回もメンタル系のお話です。

言うまでもなく、これはわたし個人の考えであり、わたしにとっては事実であっても違う人生を生きる人にとっては「なんじゃそりゃ」な部分があるかと思います。

ま、こういうことを考えている人間がいるのね~と流していただければありがたいです。

 

おそらく、わたしがそれまでにないくらいのむなしさを感じたのは10数年前くらい。

両親のお金の問題をきっかけに、自分の有能さを示したいがためにひたすら我慢の生活をしてきたことに気が付いたときです。

したくもない我慢を自分に強いて自分を傷つけて、両親に対して「お前たちは無能だ」と罵り嘲ることを至上の目的としていたことに気が付いたときです。

 

もちろん、このことに気づく直前まで、「健気でかわいそうな被害者のわたし」と「金銭管理もできない迷惑をかけてくるひどい加害者の両親」と思い、自分の悲劇に酔っていました。

 

ですが、実際にはわたしは被害者などではなく、被害者であることを盾にとった復讐者でした。

被害者であるという大義名分がある限り、わたしは何をやっても正当なのだ、というゆがんだ考えのもと、せっせと自分を痛めつけて世の中への憎しみをあおっていました。

 

わたしは対外的には怒りを出せないし、ひたすら我慢、やりたいことがあっても、あえて他人のせいで出来ないのだ、というテイで同情や許しを求めていました。

 

この世に生きていていいよ、という同情や許しを求めていました。

 

「わたしがなんの曇りもなく幸福に生きることは許されない」

「わたしが幸福だったらみんなから見放されてしまう」

 

いまはこんなふうに言語化できますが、ただただ「わがままは悪」「かわいそうなままがんばるのが自分だ」と自分を納得させていました。

 

ですが、さすがに耐えられなくなったんでしょうね。

 

もーやだ!

 

と、自分のなかに隠された攻撃性と怒りにつかまって、これまでの来し方を改めて見つめてみたのでした。

わたしにはそんなものないよ~って、両親や世の中へ対して一生懸命アピールしてたんですけどね。攻撃性も怒りもないから許して認めてってね。

 

そしておそらく、その当時はアドラー先生の著書とかは知らなかったので、アドラー先生とかのお話を聞いて影響を受けたひとの本とか読んでいたんでしょう。

ひとつの結論に達しました。

 

わたしが行き詰ったのは、親のせいでも世間のせいでも誰のせいでもない、

わたしのせいだった。

 

そのことに気づいたときは、ほんとうにむなしかった。

抗いたかったけど、うすうす気づいていたけど。 

 

この苦しみも辛さも、わたしのせいではない。わたしのせいではありえない。 

この、被害者であるわたしの、どこに罪があるというのか。 

 

そんな風に足掻いてあがいて『自分』を守りたがっている部分も感じつつ、でも、とても静かに自分自身のこれまでの行いを見つめなおしてもいた。

 

誰かがこうありなさいと言ったから、こうあろうとした。

誰かが顔をしかめるから、やめることにした。

 

誰かが言ったから、誰かがこうしたから、だからわたしは『その通り』にしただけ。

わたしに責任はない。それは『本当のわたし』ではない。わたしは何も変えられない。

わたしは無力。

 

当時の言い訳は↑のようなものです。無責任です。

自分のせいじゃないのに、どうしてこんなにつらい思いをしなきゃいけないの?!

そんな風に、この世の理不尽を嘆いていましたね(笑)

 

だけど、とうとう気づきました。

あ、ぜんぶわたしのためだったんだ。 

 

誰かの言うとおりにしていたのは、結局、そうしたほうが『わたしのため』であると『わたしが』判断したから。わたしのなかに『誰か』なんてものはいない。わたしを動かせるのは、まぎれもなくわたしだけ。

誰かのために何かをしたことはなかった。すべて、全部、わたしのためだった。

 

辛い思いをしていた。たしかに、生きづらかった。

でもそれは、

全身全霊でわたしの人生を生きていたからだった。

 

その思いに至り、これまで感じてきた苦痛も喜びもすべて、なんて愛おしいことか。

失敗もあった。不器用だった。だけど、なんて力強いいのちなんだろう。

 

そして、その思いからこの世のなかのすべてが、意識的にせよ無意識的にせよ全身全霊で生きているんだと考えるようになりました。

 

『こんなふうに接するのが正解だから』といううわべだけの尊重から抜け出せたのは、自分は確かに不本意なことをしてしまうことがあるけど、それでも、一生懸命に生きているんだと思えたから。

どんなひとも、どんな状態であっても、その人の尽くせる最善を生きている。

そこから自然と尊敬? 尊重の気持ちが生まれました。

「みんながんばっている。良い方向へ進みたがっている」

それを信じられるようになった。

 

よかったよかった~(・∀・)

 

だけども、そこからまたさらにむなしさを感じるようなことが…。

 

めっちゃ長くなったので、②へつづく。(見てる人いるかわからんけど)

 

ではまた~(^o^)/