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目標を探すのが目標。そんな日々。

【日記】関心の輪・影響の輪②/人生の嘘

こんばんは!

 

今日は眠いです…。

ま、あとでぐっすり眠れることを夢見て、頑張って書くぞ!

 

昨日の続き、まずは『関心の輪・影響の輪』のお話から。

自分がどれほど『主体性』を持っているのかを見るのに、『自分のコントロールの及ばない関心の輪』と『自分のコントロールの及ぶ影響の輪』のどちらに意識を向けているかでわかると書きました。

 

さらに、自分の持つ考え方からも知ることができます。

『関心の輪』に意識が向いていると、『所有』の概念であふれるそうです。

英語圏なので、それをhaveで表現していましたが、だいたい、以下のようなものです。

・「家さえ持っていれば…」

・「もっと部下思いの上司を持っていれば…」

・「もっと忍耐強い配偶者を持っていれば…」

・「もっと素直な子を持っていれば…」

・「学歴さえ持っていれば…」

・「自由になる時間を持っていれば…」

 

反対に、『影響の輪』にはある(be)が満ちています。

・「わたしはもっと賢くある」

・「わたしはもっと忍耐強くある」

・「わたしはもっと愛情深くある」

『影響の輪』にフォーカスすることは、人格を磨くことです。

問題は自分の外にあると考えるのならば、その考えこそが問題であり、その考え方では自分の外にあるものに支配されているということになります。アウトサイドインですね。

わたしの例で言えば、アクセス数です。

「もっとアクセス数があれば…」ブログを書く気になるのに。

「もっとはてなスターがあれば…」ブログ更新がんばれるのに。

 

なので、今のところ、あの、「アクセス数0!」事件からこっち、アクセス数は確認してません。

「わたしはブログを書くため、忍耐強くあるぞ!」 

 ですかね。

余計なことをごちゃごちゃ考えなくてすんで、ただ書けばいいだけなので、やり始めてしまえばわりとできるものなんだと、びっくりしてます。まあ、クオリティは…ね。

 

かつてのわたしなら、「もっとまともな両親だったら…」「もっと実家にお金があって、何不自由しなくてすめば…」「もっとわたしの頭をよく産んでくれていれば…」とかですね!

わ~! 懐かしい!

 

この部分を読んで、『嫌われる勇気』で有名なアドラー先生を思い出したので、そのことも書きます。てか、『7つの習慣』のこともチラッと書いてあったんだよね。

 

わたしはフロイト先生が好きなのですが、アドラー先生もいけます。(どんな自慢)

フロイト先生の「無意識に意識を有らしめよ」は、大好きな言葉です。

ですが、このお二方は原因論と目的論と言う相いれない(らしい)考え方の持ち主なのです。

フロイト先生は原因論。AだからBになった。

例・「両親がしっかりしていない」から「わたしは不幸」になった。

 

アドラー先生は目的論。BのためにAを使用する。

例・「わたしは不幸」のために「両親がしっかりしていない」を言い訳に使う。

 

『7つの習慣』は明らかに目的論に立脚していると思います。

それは、「人は変われる」という考え方です。原因論では、原因があれば結果は決まってしまうので、自分の力で変えることはできなくなってしまいます。

 

でも、原因論で生きるって実はラクですよね。 

「自分に責任がない」と思えるし、「自分は変わる必要はない」ですからね。 

不幸だし、不満も尽きないけど、「これまでと違う」「どうなるかわからない」ことをしなくてよいのですから。

 

「わたしは不幸」でしたが、幸せになるために考え努力することではなく、「その状態を正当化するための言い訳」を探し、それを後生大事に抱えることを選択していたのです。

 そのために「両親がしっかりしていない」とか「両親の金銭管理がなってない」などの粗探しをするのです。人間は、どんな人にもどんな状況にも難癖をつけることができます。

「お金がないから」「時間がないから」「恋人がいないから」「結婚していないから」「友達がいないから」「良い上司がいないから」「良い部下がいないから」

そのせいで、わたしは不幸なんだ…。

 

そう思っている人がいるなら、おもしろい見方があります。

ひょっとするとそれは、「わたしの不幸」を正当化するためにかき集めてきただけにすぎないのかもしれません。

 

あの、重苦しく、どうしようもなく、びくともしない、「わたしの不幸の原因」が、実は、自分が選んできたものだとしたらどう感じるでしょう? 世界が変わって見えないでしょうか?

 

アドラー先生によれば、人の悩みは人間関係の悩み。

かき集めてきた数多くの「わたしの不幸の原因」を口実にして、人生において取り組むべき課題を回避しようとする事態を、「人生の嘘」と呼びます。

 

「人生の嘘」だったと認められることが幸せか否かはわかりません。

そのまま、「そうはいっても、これが原因でわたしは不幸なんだ!」と言い続けるほうを選ぶ人もいると思います。

 

 「人生の嘘」だったと認めても、ただちに幸せになれるわけじゃないですからね。

ただ、いままで長年やってきたことがむなしくなった後に、なぜか重荷をおろしたような気分になって、気が楽になった、とはお伝え出来ます。

 

 あ~、書いてたら楽しくなって眠くなくなってきちゃったな~。

 

また明日!