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目標を探すのが目標。そんな日々。

【日記】第二の習慣:終わりを思い描くことから始める②

こんにちは!

 

今日でようやく七日連続の更新。

『7つの習慣』の『第一の習慣:主体的である』の30日テストの一環で、

「30日間、『7つの習慣』のことを念頭に置いた生活をする。自分だけでやっていると、なぁなぁになるから、文章に書き起こして、それを公開することで続けていこう」

というのが連続更新の動機です。

ですが、しょっぱなから、アクセス数を気にし、はてなスターを気にし、なんとも主体性のなさを露呈しながらの更新になってます。

まあ、仕方ないです。主体性の無さを自覚することでしか、主体性を持ちたいと思うことはできないと思うので。

うすうす気づいていたことに直面しているだけです。 

 

昨日の記事を書いてから、ちょっと嬉しいことに気づきました。

自分が『敵中心』で生きていたことに気づけたこと。

これは、今現在『敵中心』の真っただ中にいるのではなく、『原則中心』とはいえないまでも、『敵中心』だった自分を客観的にみることができるようになったからじゃないかと。

客観的に『敵中心』を選択した自分を認められたこと。そう、『敵中心』を選んだのはまぎれもない『自分』だと認められたこと!

 

これがすごく嬉しかった。自分で選択したものだと認められるなら、違う中心を自分で選択できるってことだ! と気づいたのです。

 

そして、この『選択の自由』こそが、今、自分の一番深い部分から感じられるちからなんだ、と思いました。

 

まあ、とはいえ、常に『選択の自由』を感じられるわけじゃありません。その時々に、いろんなものを中心に据えて、主体的の反対の、『反応的』に生きてきたので。

 

いろんなものを中心に据えていると、その時々の感情・環境に振り回されて、不安定な状態が普通になります。良いことがあればご機嫌で、悪いことがあればイライラして、感情の起伏に自分自身が疲れてしまいます。

 

なぜイライラするのかと言えば、自分に責任があるとは到底思えないから。

感情が未熟だと、自分自身の感情をコントロールする、コントロールできる、という感覚自体がなく、「こうなっちゃうのは自分のせいじゃないから仕方ない」と、その時々の感情に簡単に振り回されるのです。

でも、もしも自分のためにならないイライラが自分の責任で、自分の力で変えられるというなら、自分のために違う選択をすることができる。

まだあまり慣れていないし、なにが正解かを思い描くこともできていないけど、『原則』を思い描きながら、感情を無視するのではなく、抑圧するのではなく、そういう感情があることを認めながらも、自分の進むべき道は、自分で決めていきたい。決めることができるんだという、強力な宣言です。

 

親のせいで、周りのせいで、がわたしのお得意の言い訳だった。

誰かのせいと思うことで、誰かを中心に据えた脚本を書いていたのはわたし。

書かされたんじゃなく、書いてたんだ。自ら進んで。

 

だからわたしには、自分の脚本を書くことができる。

その助けとなるのが、第二の習慣:終わりを思い描くことから始める。

 

この章の初めに、自分の葬儀(終わり)で、自分とかかわった人たちからどう思われていたいかを、みんなからどんな弔辞をおくられたいかを、心に克明に思い描きましょうという課題が出ます。そこから、「自分はどう思われたいのか、どうありたいのか」を意識するものです。

 

そうすると、いままで表面上意識していた成功や、普段何気なく取っている周りの人たちへの態度が、この、「自分はどう思われたいのか、どうありたいのか」とはかけ離れたものであると気づくことが多いようです。

 

そう、その時々の感情や環境を指標にするのではなく、人生を貫く自分の価値観を意識し、「自分の家の設計図」を思い描き(知的創造)、それを実行(物的創造)する。

 

 本にはそう書いてあるのですが、まだ、実践できてません!

ただ、いままで意識したこともないような、「誠実でありたい」とか、「貢献したい」というワードが出てきて、ちょっと驚いています。

 

ただ単に、この本に影響されているだけかもしれないけど…。

 

やっぱり、自分の心が静かになれる場所で、じっくりと考えて決めたい。

 

図書館にでも行こうかな~。

 

では、また明日。