【自分なりの】怒りとの付き合い方③
こんばんは!
ぜんぜん書けませんでした!
一か月ちかく放置!
ネット小説にハマってたのです…。
いやあ、楽しい。
気を取り直して。今回もメンタルなお話です。長くなりました…。
さて、『怒り』とはどこから来ると思いますか?
わたしは、周りの人間の行動言動、おのれの置かれた状況など、
『外』からやってくる災難のように捉えていました。
まわりがわたしに危害を加えるから、わたしは怒っているんだという認識です。
つねに、怒りを感じるときわたしは『被害者』ということです。
わたしが『被害者』となることを選ぶ最大の理由は、
ぶっちゃけると、相手への攻撃を正当化できるからです。
これは、秘密ノートを書きなぐっていたときにやっと気づけたのですが、
自分がいかに悲しく苦しくみじめな思いをしたかと思うことで、
その原因である相手をこれでもか! と攻撃できるのです。
すごいよねー(*´∇`*)
でもまあ、意識のうえでは相手を攻撃することはよくないこと、
いかなるときもやってはならないことと認識しているから、
表面上は『かわいそうな被害者』を装い、
ひどい目にあっても相手を『許す』良い人のフリ、アピールをしてました。
まったくの喜劇ですけど。
『怒り』も『攻撃性』も、わたしにはないよ~、アピールです。
誰へのアピールかって? たぶん、両親。あと、自分自身。
これはね、たんに、『怒り』『攻撃性』を表出した幼児期に、
思ったように受け入れてもらえなかったのだろうと思います。
それで、「これ、やっちゃダメなんだ」という思いから、
おそらく何十年もアピールを続けてきたのです。自分を認めてほしいがために。
たぶん、親は何とも思ってないし、そんなこと知らないだろうけど(笑)
そのことに気がついて、
自分自身を捻じ曲げてでも認められたかった己の健気さと決別することにしました。
たとえば、「あのときこうしてくれなかった!」と、
現在の親を責めて罵っても時間のムダでしかありません。
わたしの親は、わたしが望むような行動を常にとってくれるわけではない。
深く傷ついたこともあった。
でも、それはどうしようもないことであると、諦める。
諦めなければいつか報われる、という気持ちを捨てる。
この世には、どうしようもないこと、叶わないことがあるんだと、認める。
怒りとは、周りの人間の行動言動、己の置かれた状況など、
『外』からやってくる災難のように捉えていました。
なぜ、周りの人間の行動言動、己の置かれた状況に怒るのかといえば、
変えたいから。
怒りを使って、相手を思い通りにコントロールしたいから。
思い通りになってくれないと、幸せになれないと思い込んでいたから。
相手にはその力があるが、自分にはないと思い込んでいたから。
子どもが泣いてわめいて親を従わせる、
そんな自己中心的な行動を、いい大人になってもやり続けてたのです(恥)
精神的な親離れだったと思います。
自分の一部のように思ってきたけど、別の個人であるということを認識した。
わたしとは違う人格を持った人間であることがとてもさみしくて、
いつまでも甘えさせてほしい守ってほしい、と思っていたんだなぁ、
と気づいたのです。
ああ、わたし本当にひとりぼっちなんだ…と、
自分自身を生きるとは、わたしにとってそういう孤独から始まりました。
『怒り』と『攻撃性』を他人に押し付けて、自分の中にはない、と喧伝してたけど、
20代前半ごろになってやっと、
自分の中の『怒り』と『攻撃性』を受け止めることができました。
『怒り』は自分の中にある。『攻撃性』も自分の中にある。
わたしは長らく怒ることも攻撃することもできなかったので、
けっこう他人から舐められることがあったのですが、
『自分のためだけに戦う決意』を決めたとたんに、
馬鹿にしてくるような人はわたしへの興味を失うようになりました。
正直、思いっきりケンカしてみたかった(笑)
わりと好戦的な性格だったのです。
ほんとうは短気でケンカっぱやかった…。
ちゃんと見極めてるんだねぇ。
あるいは、自分のために戦うとは自分を尊重することだろうから、
相手もわたしを尊重してくれたのかも。
この世は鏡と言いますし。
今では、冷静に『被害者』になるばかりではなく、
自分の中のどんな感情で怒りが『誘発』されているかを見極めています。
被害者にならなければ、加害者もいませんから、
攻撃を加えるため、他人のために時間を割くこともありません。
自分のためになることをして、生きやすくなって、
得した気分です(´∀`)
つぶやいてます。