【目標】2022
こんにちは!
年末年始、けっこう規則正しく寝起きができております。
外の雪がすごくて、その現実から目をそらすために書いてます。
今日は(なんちゃって)唐揚げと、ラーメン作る(⌒∇⌒)
唐揚げはニンニクきかせて、ラーメンはチャーシューましましで!
…これを書き終えたら、雪かきしてこよう…。
さて、せっかくの年始、今年の目標を語りたいなと思います。
〇脱社畜!
〇すぐ! は無理でも着手できる人になる!
〇健康大事に!
まずは『脱社畜』なのですが、これは、最近観ているYouTubeの影響ですね。
あ、脱社畜=退職ではありません。
なんていうんだろ、ただただ仕事を言われるままにこなして、ストレス溜めて、その発散に時間やお金を消費しがちなのが現代の労働者って語り口で、そこから主体性をもって取り組むことで、お金も時間も増やしていこう、取り戻そう、みたいな?
まあ、お金や時間が実際に増やしていけるかはわからないのですが、『主体的』であれよという主張は、まったく同意です。
会社に雇われているから主体的になれないわけじゃないし、自営業をしていればそれだけで主体的というわけでもないでしょう。
う~ん、『会社のせいで』『顧客のせいで』『○○のせいで』…、誰かのせいにしないってことでしょうか。
わたしで言えば、「仕事で疲れているからお弁当ですませよう」とか、「仕事で疲れているから友だちに連絡とるのも億劫だ」とか。
会社や仕事のせいにしてますね。かといって、疲れているのに無理して料理せよとか、友だちに連絡とれ、ということじゃないですよ。
『わたしが』疲れているからお弁当を食べる。『わたしが』疲れているから友だちに連絡を取りたくない。ということをちゃんと意識するということです。
わたしの、わたし自身の選択であることを意識していようということです。
そうすると、気持ちがとてもサッパリします。
わたしの脱社畜とは、「会社、仕事、職場」のせいにしないで、自分の人生のためにできることをほんのわずかでも積み重ねていく。その芽を育てていくこと、です。
会社とか仕事って、かなりの大義名分になりますからね。わたしは学生時代は勉強を大義名分にしてたなぁ。
そう、会社・仕事を大義名分にせず、わたしのためになることを探る。それがわたしの考える脱社畜です。「会社が~」「職場が~」って言わないってこと。
正直、今の職場環境は悪くないですし、収入にも不満はありません。やめなきゃいけない理由はないので、仕事自体は続けますが、なにか自分のためになることをやっていきたいと思います。
すぐ! は無理でも、着手したい、のは、昨日の記事書いてて、「メリットないとわかっていながらも、ズルズル貯蓄型保険に加入し続けている」ってことが、わかっているのに行動に移せてない自分の象徴に思えましてね。年末調整での還付もあるし、なんでもかんでも解約すればいいってわけじゃないけど、解約するための手続きに着手しました。
記事書いてから保険証書とか確認してたら、ネットからでも解約書類の請求ができるとのことで、えいやっとやってしまいました。ネット便利。
まだ解約したわけじゃないけど、一歩は踏み出してみました。
まあ、解約するとかなりの損です。だけど、わたしはかなりののんきものなので、「まとまったお金が手に入った!」ってウキウキしそう…。あほだ。
気になってる投信もあるので、解約したらそのお金で購入してみようかな~と、前向き(?)な気持ちになってます。
健康大事に! は当然ですが、どう大事にするかというところが問題ですよね。
実は去年、体調不良が続いて検査・処置をしてもらいました。さいわい、問題もなく体調は回復しています。「問題ないですね」ってお医者さんから言われると平気になるの不思議。病は気から。
で、思ったんですよ。医療保険とかがん保険とかに入るより、何もなくても年イチとか、2,3年に一回検査を受けるほうがいいなって。
普通の検診は毎年職場で受けられるし、婦人科検診も個人で毎年受けている。けど、胃がんとか大腸がんの検診も職場のバリウム検査や検便検査じゃなく、内視鏡検査うけたいなぁって。お金はかかるんですけどね。
もっとほかにもいろんな種類の病気があるとは思いますが、有名どころで言ったら、女性は乳がん・子宮頸がん、あとは胃がん・大腸がんかなと。
あ、あとは歯ですね! 最低でも年イチでCTとってもらって、虫歯とか歯周病とかの検査・治療はしていきたい。
おいしいごはんを食べていきたいですからね。
あとは、もっと体を動かして、体重増加に歯止めをかけていかなければ…(切実)。
健康で主体的に! 一年を過ごしていけるように、まあ、まずは!
雪かき行ってきます…。
では、また。
【家計簿】2020、2021
あけましておめでとうございます。
去年も大変お世話になりました。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
去年はほとんど更新できませんでした。
今年は、去年よりは更新できたらいいなぁ。
さて、お雑煮も食べましたし、お昼は昨日の天ぷら(もちろんお惣菜)で天丼!の予定。(ごはんのことを考えるのが楽しい)今はお茶しながら、去年、おととしの家計簿をぺらぺらめくってます。
そう、去年は家計簿の振り返りをせずに、ぬるっと一年お金のことに触れずに過ごしてましたね。まあ、わたしは節約家でもないので、誰かの参考にもならないし、むしろ資産運用(?)は失敗気味…。単なる自己満足記事なのですが。
まあ、SNSは自己満、自己顕示欲の発露なわけだし、「見てみて!」ってことで。
では、2020から。
【2020】1月から12月まで
手取り収入 387万円
還付金 5万円
ポイントサイト等収入 2万円
特別給付金 10万円
総収入 404万円
最低生活費 145万円(月約12万円)
(家賃・水道光熱費・通信費・そのほか日常生活に最低限必要なもの)
特別費 56万円(月約4.7万円)
(医療費・被服費・美容費・町内会費・整体・漢方・ホワイトニングなどなど)
両親への援助 47万円
車購入 118万円(中古車。保険・ドラレコ・冬タイヤ等含む)
総支出 366万円
2020年収支 404万円-366万円=38万円
貯蓄率 約9.4%
※この中には職場の財形貯蓄や貯蓄型の保険料(合計約56万円)も含まれています。…つまり、額面上は38万円-56万円=-18万円ということで、マイナスです💦
が、総資産としては、2019年末1,236万円、2020年末1,256万円で、+20万円となっております。これは、積み立てNISAとか、iDeCoとかの利益のおかげですね。
【2021】1月から12月まで
手取り収入 462万円
還付金 4万円
ポイントサイト等収入 1万円
貯蓄型保険給付金 314万円
総収入 781万円
最低生活費 155万円(月約13万円)
(家賃・水道光熱費・通信費・そのほか日常生活に最低限必要なもの)
特別費 92万円(月約7.6万円)
(医療費・被服費・美容費・町内会費・ケータイ買換え・自転車購入・整体・漢方・ホワイトニングなどなど)
両親への援助 105万円
総支出 352万円
2021年収支 781万円-352万円=429万円
ただし、保険の戻りを考慮しないと、467万円-352万円=115万円
貯蓄率 約24.6%
※この中には職場の財形貯蓄や貯蓄型の保険料(合計約46万円)も含まれています。
2020年末1,256万円、2021年末1,704万円。+448万円。
〇生活費が高騰している(2018は、生活費126万円、月に10.5万円くらいだった)
〇特別費も高騰している(2020の後半から通いだした整体と漢方がけっこう大きい)
〇親への援助は年によって大幅に変わる(予測不可能)
〇収入は、2021は昇給がすごかったのと、残業が多かった(つまり、2022は下がる)
〇投資(積み立てNISA・iDeCo・ほかの投信)は、下がるときは心臓に悪すぎるが、一年くらいの期間で見れば、上がってくれている
2021は、300万円越えの保険金の満期給付があったため、総資産がかなり増えてましたが…。
安心してください。
かなり損してます。(笑)
笑い事じゃないんだけど、笑うしかない。
就職したころに加入した、貯蓄型保険という、今時の若者なら見向きもしないであろう商品。しっかりと特約もかけているので、かなり、かなりの損です。
で、いまだにもう一個の貯蓄型保険も続けています。もし、なにか別のものに投資をしたいと積極的に考えていれば、さっさと解約して投資しているかもしれないですが、そういう行動力もない。まあ、途中解約だと戻りが悪いからなぁとズルズルと…って感じですね。
まあ、他人に対してなにか偉そうなことを言える立場にはないし、まるっきり「おまゆう」だけど…、
銀行で勧められたものは買わないほうが良いよ( ;∀;)
即決はダメだね。対面だと断りにくかった。まったく知識もなくて、善し悪しの判断も出来なかったんですよ。はっきり言って、勧誘した行員が悪いのではなく、わたしに判断能力がないことのほうが問題だった。
知識がないのに飛びついちゃだめだわ。というか、そもそも自分に金融知識がないってことにすら気づいていなかったってことだね。
今は自分が無知であるってことはわかっているので、失敗もありつつ、勉強させてもらってます。ネットで取引できるのはほんとありがたい。
今年はいったいどうなるのか、まったくわからない。
かの疫病がどう転んでいくかもわからない。
でも、自分の健康(体も心も)を守りつつ、わたしの大切なお金も守っていこうと思います。
では、また。
【振り返り】2021
大変お久しぶりです。
生きてます。雪がけっこう降り積もる地域なので、車を出すのも一苦労です。
でも、車って、めちゃくちゃ便利!
当たり前だけど、徒歩とは違って時間を短縮できるし、荷物もたくさん運べます。
今日は今年最後の買い出しに近所のスーパーへ行きましたけど、以前のように徒歩だったら、荷物もかさばってめちゃくちゃ疲れただろうなぁ。
そういう、地味な疲労を貯めてきていたのかもな。
もちろん、身体を動かすことも大切ですけど、いままで、わりと鞭打ってきたなって思いますね。
さてさて、今日は2021最後の日! ということで、ちょっと今年を振り返ってみます。
でも、数行で終わる予感。(予告?)
・仕事してた
・おいしいものをいっぱい食べられた
・わずかでも自分の成長を感じられた
はい、三行で終わりましたね。
仕事では、いろいろと勉強になりました。今年は研修もあって、面白かった。(ただ、上司からは『面白い・楽しい』じゃなく、『これをどう活かしていくか?』を常に念頭に置いてね!って言われる…はい)
私生活だと、まったく節制しておらず💦
外食はほぼしてないのですが、ちょこちょこ贅沢してましたね!
とてもおいしかった!
仕事でいろいろ今までやったことのないものに触れられて、如実に成長を感じましたよ。(`・∀・´)エッヘン!!
で、自分で調べてもわからないときは、熟達者に聞く! それが一番ですね。
それが答えってわけでもないから、前例を調べて、その上で現状にあわせて対応していく。自分だけで考えると前進できなくなることがあるから、行き詰った状況に風穴を開けるのに、他人の意見をいただくのは有効でした。
ま、それを受け入れるかどうかは状況次第。
なんというか、まわりのほとんどの人は『人の役に立ちたい』って感じの方たちで、悩みをつぶやくと、いろいろ考えてくれます。まあ、わたしが失敗すれば、チームにも悪影響ですからね。わたしも、知りうる限りのことをお返ししようと思えます。
そう、最近意識していることは、
『やって当たり前と思うことしかしない』
矛盾しますが、返礼を期待しない。
お返しを期待しないってことです。
お返しがあってもなくても、『わたしが』『これをすべきである』と思えることをする。
後で「お返しがなかった!」と憤慨するのなら、それは、わたしの『これをすべきである』と思ったラインが誤りだったということです。相手の反応は関係ない。いや、むしろ自分のええかっこしいなところをあぶりだしてくれたと言えますね。
境界の問題については、やっぱりアドラー先生です。
褒めない、叱らない子育てとは、褒章も罰も必要ないということ。
実際にそれができるかと言われると難しいと思うけど、まあ、理屈としてはわかるかな。
ぶっちゃけると、ミーハーな、流行に流されやすい人、その時だけ良ければ良いという人になってしまうから、でしょうか。
・良いことをした⇒褒められる⇒褒められるために良いことをする
一見良いことのように見えますよね。
でも、これの問題点は、はじめは『良いこと』を、『自分で』考えてやっていたのに、『褒められる』といううれしい出来事のせいで、褒章を与える側の、強者の気に入ることを率先してやっていくようになること。上下関係が形成されてしまうこと。
自分の意志を忘れてしまうこと。
・悪いことをした⇒叱られた⇒叱られるようなことは(表面上は)しなくなる
○○はやっちゃダメ! と叱られれば、○○はしない。でも、悪いとは知らずにもっとひどいことをやるようになるかもしれない。
「悪い点数をとっちゃダメ!」⇒「じゃあ、カンニングしよう」
という風になっていくかもしれない。バレなければ、業績さえ上げられれば良いのだと。悪意なんてないまま。
極論過ぎるかもだけど、悪い点を取った時は、自分の能力を粉飾しようとはしていなかった。自分自身のままだった。でも、それを叱られたから、『叱られないため』にもともとあった自分を棄てて、評価者、強者の望むものに無理やりカタチを合わせていこうとする。
自己を抑圧しない、自己を喪失していない人間というのは、かなり稀だと思います。というか、自分がそうなれていないからそんなふうに思うのだね。
自己を抑圧しない、自己喪失していない人というのは、誇り高い人でしょう。
といっても、誰かの決めた成績順に並べて、上位にいるぜ! って感じじゃなく。
誰かから下に見られるようなことがあったとしても、相手には相手のモノの捉え方があると、自他境界をしっかりと引ける人。
自分の立場も、相手の立場も理解できていて、もちろん、自分を大事にできる人。
自分をしっかりと大事にできているから、他者のことは他者自身が大事にできるはずと、余計なことをしないでいられる。それが他者信頼ってことかな。
あれ、なんか話がとっちらかったな。
まあ、ほどほど楽しい一年でした。
来年も良い年になりますように。
では、また。
【雑記】わたしの好きなもの②
こんばんは!
すっかり秋ですねぇ。
だいぶご無沙汰しております💦
この夏最大の衝撃は、オリンピックのアーティスティックスイミング(わたしの世代的にはシンクロナイズドスイミング)のオーストラリア代表が、志方さんの「謳う丘」を流したこと。
びっくりしたよ! うれしいよ!!
さて、今回もわたしの好きなものをただ並べます。
あ、ちなみに、前回わたしの子どもの頃の好きだった曲の世代がちょっと古いと書きましたが、よくよく考えてみれば、それは単純に親の影響と、あんまり音楽番組とかを見なかったためだと思います。わたしの感性が特殊ってわけじゃなく。
音楽番組より、アニメ見たいし、ゲームしてるほうが楽しかったので。
で、よく触れる音楽を自然に好きになったってだけでしたね。
さて、今回の一曲目は、わたしが小学生のころから好きな、アガサクリスティーの『名探偵ポアロ』のテーマ曲です!
デヴィッド・スーシェさんのシリーズが一番好きです。
小学校から帰ると、NHKでちょうどやってて、母がよく見ていました。
わたしも見るともなく見てて、このもの悲しさのあるメロディーに惚れました。子どものころは、正直、ポアロで描かれている人間ドラマをよく理解できていませんでしたけど、大人になってからBSで再び見ると、なかなか面白い。
やっぱり有名なのは『オリエント急行殺人事件』かなと思いますが、あれの一番の肝は、法と正義の板挟みにあうポアロさんの苦悩だと思います。
で、いまググってきたら、あの苦悩演出はドラマオリジナルだったようです。原作は読んでないからわからないけど、あの冒頭のポアロさんへの糾弾はなかったのかぁ。
このドラマシリーズ最終回の「カーテン」にはかなり驚かされました。全部ひっくり返ったよ…。さすが探偵。
見たことのない方には、かなりお勧めです。なんていうか、時代の空気? みたいなものが優雅です。
で、つぎ。
アルトネリコ第二作目のラスボスたちによる純粋なる愛のうた。
未だに、こんなに美しい曲を奏でるラスボス戦はないんじゃないかなぁと思う。
しかも、歌っているはラスボスたち。
エクゼク_オーバー.メソッド_サブリメイションは、三部構成で、この前に歌われるのはおどろおどろしい、嘆きと怒り、破壊のうた。
対比として面白いから載せようかなと思ったけど、かなり激しい曲なのでやめときます。
アルトネリコ三部作では、この第二作目が物語としては一番好きです。
↑第二作目のオープニング曲。
第二作目は、惑星再生のために必須の『大地の心臓』を紡ぐ詩、メタファリカを巡る物語です。
完全に生命が循環する大陸を創造する詩です。(そして、その大陸の核である大地の心臓が惑星再生のカギ)
理論は完成されていて、その詩を謳えばよいのですが、エネルギー不足のために失敗しています。塔のエネルギーを半端なく削ってしまうので、塔を維持するために何百年も謳われてこなかったという背景があります。
メタファリカを象徴する物語のヒロインはラプランカという少女で、ラプランカは常に、雨の降らない国で、人々を潤し癒せる木の実をみのらせようと、神樹の種を蒔き、自分の飲み水を分け与えて育てようとしています。
ですが、それは失敗し、絶望します。
第二作目のラスボスたちも、かつてメタファリカに挑み、挫かれ、絶望したラプランカともいえる存在。
人々の希望となりうるほど純粋な存在が、いわゆる闇落ちするとめっちゃ怖いよ!
って感じかなぁ。
このラスボスたちも純粋に人々のことを思い、世界への愛のためにサブリメイションを実行しようとしているので。ただ、人々の望むものとは違ってしまっているけど。
ラプランカ伝承の時系列としては、
第二作目の塔の管理者(神)であるフレリアと意識を共有できる、『焔の御子』が謳うエクゼク_メタファリカ。ヒュムノス語部分で、ラプランカが、世界の人々が絶望している状態(エネルギー不足)であることをしていることを示しています。いわゆるバッドエンド。
エクゼク_ハイバネイション
人々の望みのままに、願いをかなえる木の実を紡ぎ続けたラプランカが見出した、ひとつの理想郷のカタチ。進化すると、サブリメイションになる(笑)。もちろんこれもバッドエンド。
14分越えの大作。
メソッド_インプランタ
エクゼクで始まるのは、アルトネリコ・サーバーを使用していることを示し、メソッドで始まるのは、IP(インフェル・ピラ)サーバーを使用していることを示しています。
IPを正常化するための詩です。
エクゼク_メタファリカのエネルギー不足問題を解決するために創り出されたのが、IPです。レーヴァテイルひとりでもすごい力(語彙力)がありますが、このIPでは、レーヴァテイルたちの境界がなく、その力を縒り合わせることができます。その途方もないエネルギーをエクゼク_メタファリカに供給することで、詩の成就の可能性を示します。
いきなり現れた少年マオが謎でしかないけど、イケメンなのは間違いない。
メソッド_メタファリカ
希望を取り戻したラプランカが、再び種に水を分け与えます。
少年マオも、一緒に神樹インプランタを育てることを決意し、人々の心にも希望がよみがえることを願います。
『焔の御子』と絆を育んだ、IPD(インフェル・ピラ・サーバーを経由するレーヴァテイルたち)を導く、『澪の御子』によって謳われます。澪(みお)とは船の作る波の緒のこと。IPDたちを導く御子の詩です。
エクゼク_ウィズ.メソッド_メタファリカ
エクゼクとメソッドの融合。エクゼクとメソッドのベースはありますが、ただ単に二つの曲を合わせたのではないのですよ。説明ができないけど!
ラプランカとマオが育てる神樹に、世界の人々も水を分け与えます。
雨の降らない国には、神樹インプランタがあり、みんなを潤す。
それはみんなで育てた神樹。ラプランカの心は誰にも宿っている。
ラプランカは『特別な少女』ですが、その『特別さ』は実は誰の心にもある。
『特別な誰か』だけが特別じゃない。だれにでも、わたしにも出来ることはある。
「天上天下唯我独尊」という言葉がありますが、これは、「この世でわたしほど偉いものはいない」といううぬぼれの言葉ではなく、「この世に生きるもの、すべてが尊い」という意味だそうです。
そうですよね、「この世でただひとり我のみ尊い」というのなら、あなたも、わたしも、誰も彼もが尊いとなるじゃないですか。みんな、それぞれの「我」なんだから。
(仏教的にはさらに、「今ここに生まれてきたが再び生まれることはない」と続くようです。お釈迦様は解脱(現世の苦しみから自由になる、六道輪廻から脱する、輪廻しない)しているので、再び生まれることはない、となる)
仏教的な解釈と、わたしの勝手な解釈では違うのかもしれませんが、「わたしは尊い」と思えるからこそ、当たり前に「あなたも尊い」と思えるってことじゃないかなぁと。
「わたしは尊いがあなたは尊くない」も「あなたは尊いがわたしは尊くない」も、けっきょく、「わたしもあなたも尊くない」ってことじゃなかろうかと思うんですよね、話が飛躍しすぎかもしれないけど。
誰かを貶めなければ自分を保てないのは、シンプルにただ自分を信じていないから。
自分を貶めることで誰かを持ち上げ、その誰かによって自分を承認してもらい自分を保とうとしているというなら、それはその誰かを信じられないから。(コイツは持ち上げてやらなきゃ、自分のことなんて認めないだろうというダブルの不信)
つまり、自分を信じ認めることができないから。
だからこそ、「ただ我のみ尊い」と思えれば、「この世のすべてが尊い」となるんじゃないか。
あれ、またものすごく脱線した。
まあ、とにかく、ぐだぐだ考えるのも「わたしの好きなもの」ですし、よしとしよう。
では、また。
【雑記】わたしの好きなもの
こんばんは!
今夜は炊き立てご飯でカレーでした。
いろいろと済ませておきたい用事も済ませてあるので、至福のひととき…(・∀・)
で、思い立ったので、わたしの好きなものをただただ語りたいと思います!
今日のお昼に書いたブログは、「これからは恥ずかしいことをする」という決意表明だったのですが、それは、自分の趣味趣向も当てはまると思ったからです。
赤毛のアンはもちろん大好きですが、ほかにも大好きなものはたくさんあります。
そして、わたしは自分の好きなものを自信をもって好きだというのが苦手…。
なんかね、メジャーなものが昔からあんまり心惹かれないんですよ。
幼稚園の時に好きだった曲は、井上陽水さんとか、アリスさんとかでした。
男性ボーカルのなかでわたしの一等好きな声を持っているのは、最盛期の(笑)ゴダイゴのタケカワユキヒデさんです。これはずっと変わらない。
いや、超メジャーなんだけど、年代が合わなかったみたいで、学校のときはまわりと話が合わなかった。
正直、モー娘。さんとか浜崎あゆみさんとか安室奈美恵さんとかEXILEさんとか、まともにわかる曲はあんまりない…。
アニメの曲とかが大好きだったんですよ。わたしの中ではちょーカッコイイ!って感じで。
で、いまだに大好きで、YouTubeで聴いているのは、ゲーム音楽です。
これも、たぶんメジャーじゃないやつだと思います。
いや、知ってる人は知ってるだろうけど、でも、FFとかそういうビッグタイトルではないです。
わたしが大好きなゲームは、『アルトネリコ』シリーズ(三部作)です。
そして、その劇中歌たち。というか、志方あきこさんの曲。
アルトネリコはよくあるファンタジーRPG、剣と魔法の世界っぽいのですが、魔法はヒュムノス語というゲーム内の人工言語によって紡がれ歌われます。
ヒュムノス語で歌うことによって詩魔法を紡げる種族はレーヴァテイルと呼ばれており、女の子しかレーヴァテイルになることはできません。詩魔法を使えるのは女の子だけってことですね。
詩魔法の力は強大で、ボス戦で勝つには、詩魔法は必須です。
ですが、詩魔法が使える以外は普通の女の子なので、モンスターと戦うためには前衛に立ち、守ってくれる戦士が必要となります。
自分を安全に守ってくれる存在があることで、レーヴァテイルは真価を発揮し、強大な威力の詩魔法を紡ぐことができるのです。
で、わたしはこのどこの言葉とも言えない(ラテン語っぽいかな)
わけのわからない感じの歌がすごく好きなんです。
ゲームをしていた当時は、「なんか言ってんだろうな」くらいのものでしたが、CD買って歌詞カードを見て、めちゃくちゃ作り込まれていることに感動して、ヒュムノス語でこういうこと歌ってたんだ~とわかって、控えめに言ってもかなり興奮しましたね。
↑は第一作目のOP曲です。
このヒュムノス語の翻訳を見ると、ダウンロードだのイニシャライズだのフリップフロップ変換だのと言うファンタジーらしからぬ言葉が並ぶのですが、そうです、実はアルトネリコは、ファンタジーではなくて、SFだったのです…!
まあ、ぶっちゃけファンタジーだろうがSFだろうが、おもしろければそれでいいわけですけども。違いがわからんし。
詩魔法は詩サーバーを通して処理され、想いを力に変換している、という設定です。もともとは詩そのものの力もあり(我々のビッグバン宇宙ではなく、原初に詩を囁いたエクサピーコ宇宙なので)、それは自然の力を借りるもので誰でも使えたのですが、威力はごく素朴なもので、すでに失われてしまっています。
大事故の影響により詩サーバーであり、詩魔法の増幅塔(アルトネリコ)のほかには建造物はなく、地表を失った惑星の、再生の物語。
の、皮をかぶったギャルゲーですね。
R18ではないですけど、かなりきわどい感じが…。
わたしはまったく問題なかったですけど。女の子かわいいし。
レーヴァテイルの成長のため、ヒロインたちの精神世界(コスモスフィア)にダイブするのですが、そこでのはちゃめちゃでめちゃくちゃな遣り取りも、精神分析っぽくて面白かったです。たぶん、このゲームではじめて「パラダイムシフト」という言葉を聞いたと思う。
とりあえず、好きな曲を貼っていこう。
↑第一作目のラスボスを眠らせておくための詩。
↑第一作目のラスボスを倒すのではなく、ラスボスの希望を取り戻させるための詩。
↑第二作目のとにかくめちゃくちゃカッコイイ攻撃魔法の詩。着メロにしたい。きっとみんなびっくりする(わたし含む)。
ええ、わたしは無駄に荘厳っぽい曲に弱いのです。
作品については、わたし自身うろ覚えだし、わたしの最愛は第一作目のラスボスなので、愛を書くとすべてがネタバレになる。
まあ、この記事読んでアルトネリコやろうとする人はいないだろうけど…。
曲はすごく素敵なので、折に触れ、ねじ込んでいこうと思います。
(やっとYouTubeのリンクを貼ることができたので)
では、また。
【日記】大恥をかく!
こんにちは!
めちゃくちゃお久しぶりです。
仕事が忙しいのと、特筆すべきことがなかったためです。
去年より仕事が忙しくなり、てきめんに、食費が高騰しております( ;∀;)
いやぁ、月の集計するとき「やっちまったな」って、毎月思ってる。うん、毎月…。
ま、過ぎたことはしよーがない!
で、今回もメンタル系のお話です。
これはわたし個人の気持ちですから、こんな考えの人がいるんだなって思うくらいでお願いします。
さて、タイトルですが、これはわたしの目標です!
「大恥をかく」
です。
なにを言っているかというとですね、まあ、わたしのこれまでの行動原理、志向を一言で言うと、
「無難」
なんですよね。
「普通」にあこがれていたし、寄らば大樹の陰、長い物には巻かれよ、自己主張が一番の苦手。
なんていうか、『正しいか、正しくないか』をものすごく気にする。それも、『世間一般』が主語であって、『わたし』がどう思うかは二の次三の次。
まあ、それがわたしの生存戦略、ライフスタイルだったということです。
それがうまく機能していたことももちろんあります。でも、今ではそれが負担になってきている、というより、自分に合わなくなってきたようなんです。
なので、今の自分が求めているものを手探り状態ではありながらも、つかみ取っていきたい。
たぶん、「これ」と言えるようなぱっとわかるようなものではないのだろう、と思っています。
その気づきのきっかけとなってくれそうなものが、わたしの「恥ずかしい」
という気持ちです。
なぜならそれは、
わたしが全身全霊をかけて避けたかったこと
だからです。
まあ、かっこつけなんですよね。カタチだけ整っていても空虚だってわかっているのに、どうしてもカタチだけでもと求めてしまう。
心の奥底にあるのは、ぬぐいがたい空虚さなんでしょう。
空虚だから、なんとかして体裁を整えて、そのみじめさから逃れたい。
みじめさから本当に自由になる、ブレークスルーするためには、どうすればいいのか?
とても単純で、みじめであることを認めて、そこから新たに始めてみるしかないんでしょう。
わたしはみじめなんかじゃない!って言いたくて、カタチを求めているわけですから、そもそものみじめさを受け止められれば、カタチを求める必要は消えるのです。
そうやってみじめさを真面目に受け止めようと思うと、不思議なことが起こります。
わたしが最近まで一番みじめなことだと思っていたことは、結婚できていないこと、子どもを産んでいないことなんですが、そのみじめさがかなり勝手に薄まりました。
わたしは異性から愛される魅力的な存在ではない、誰かを心から愛せている存在ではない。
そんな気持ち。
でも、よくよく考えてみれば、この状況(未婚)はわたしの望みそのものでもあるんです。
わたしがずっと心の奥底で恐れていたのは、責任をとること。
あるいは、この人だ! と決めること。
そして、失敗すること。
まずなによりも失敗することを考えている時点で、かつてなんらかの失敗があり、その傷を後生大事に抱え続けているわけです。
それはべつに恋愛のつまづきというわけではなくて、たとえば、大好きな友だちがいて、わたしはその子のことが一番好き! と思っていたのに、その子は違う子のことが一番の友だちだと思っていたことを知った時の衝撃、とでもいいましょうか。
わたしはきっと、その時に「わたしは失敗した、間違えた」と断じたんでしょう。
自分が一番に好きな人から、一番好きだと言われなければ、好きになる価値もない。
そして、自分の好意をオープンにすることは危険な行為となりました。
わたしは友だちに好きな人の相談なんてできず、自分の好意は徹底的に隠して、相手のほうから働きかけてくれることを切に願っていました。
まあ、無理だよね。(笑)
大好きなんだったら、大好きなままでよかったんだよ。
たしかに、思いが通じ合わない気がして悲しかったけど、それで自分の気持ちを引っ込めてしまうなんて、もっと悲しい。
自分の気持ちを信じてあげればよかった。
大切なのはうまくいくいかないってことじゃない。誰かの一番になることじゃない。
もちろん、相手の気持ちを無視することでもない。
自分の心の中だけは自由なんだから。相手の心も自由だ。
好きになった人とうまくいかなかったとしても、『酸っぱい葡萄』みたいに、「フン、べつにあんな奴どうってことないよ」と自分の心を滅多打ちにするのはやめよう。
わたしは確かにその人に惹かれ、好きになったけど、相手はわたしに対してそういう気持ちを抱かなかった。ただそれだけ。悲しいけど、ただそれだけ。
わたしがわたしの気持ちを守らないで、だれが守ってくれるというのか。
結局、わたしが傷ついていたのは、誰かの一番になれなかったことでも、世間体を守れるようなステイタス(友情、愛情、結婚、こども)を得られなかったことでもなく、相手の態度次第で自分の気持ちをあっさりと投げ捨て、打ち捨て、踏みにじる、信頼ならない自分自身に対してでした。
自分の気持ちに責任を持つ。自分で自分の気持ちを守る。
その覚悟を決めて、そして、少しずつでも自分の気持ちを現していきたい。
うまくいかなければ傷つくだろうけど、でも、それは失敗じゃない。
わたしがわたしを見放して見捨ててしまうことこそが、最大の過ちだった。
とはいえ、リハビリなので、ちっちゃな恥からはじめていきたいと思っています。
というか、特筆すべきことじゃないけど、職場ですでにちっちゃな恥ずかしいこと(自分の気持ちを表現すること)を始めています。
ありがたいことに、「あ、そうなんだ~」って感じで受け入れてもらえていて、なんでいままでやってこなかったんだろうと思ってしまいますが、まあ、これがベストタイミングだったんでしょう。
これまでは、ほんとに『アウトサイドイン』な考え方だったんだと思い知らされました。いや、今だって、油断すればすぐに『アウトサイドイン』になってるんでしょうね。
周囲の環境や、取り巻く人々、わたしのステイタス、スペック、それがわたしの幸福を決定するのだという考え方。問題は『外側』にあり、それさえ解決すれば、わたしは幸せになれるのだという信念。
誰かの一番になれれば、結婚出来れば、子どもを得られれば…。
そうすれば、自分を頼りにできる。やっと。
でも、そんなときは来ない。
だから、弱くてブレブレで、卑怯で、この世の誰よりも頼りにならないこのわたしを頼り信じる。
わたしの内面から始める。インサイドアウト。
コヴィー博士の『七つの習慣』のなかで、こんな引用がありました。
「探究に終わりはない。すべての探究の最後は初めにいた場所に戻ることであり、その場所を初めて知ることである」(T.S.エリオット)
ええ、何度でも戻って、何度でもわたしを知ります。
いつか、「あなたが好きです」と、大恥をかけますように!
では、また。
【日記】漂白しつくした理想郷
こんばんは!
いきなりですが、年度末はすごく落ち込んでいました。
わたしの仕事上、すごく尊敬していて好きな上司が異動になってしまった…_| ̄|○
それが引き金で、赤毛のアンやらなにやら思い浮かべては涙( ;∀;)
思いっきり泣きたい気分だった。
でも、もうすっかり新体制に慣れました。
というか、べつに尊敬しているし好きなまんまだったわ。
何も変わらないし、新しい人たちと過ごせて、それもまたよしでした。
年取ってよかったなぁと思うのは、昔ほど神経過敏じゃないことでしょうか。
あるいは、自分を見つめなおせたからかな。
ほんと、ほんのちょっと前まで『自分』にとらわれすぎて、気にしすぎて、どうでもいいようなことでオドオドビクビクしてたけど、他人はわたしが『自分』に対するほどの関心なんて持ち合わせていないってわかったので(証拠はわたし自身(笑))、わりと好き勝手出来るもんですね。
あとは、えいやっとやってみよう。次につながっていくのなら、それは失敗じゃないよ。
すごく二の足を踏む人間なので。というか、思考停止か。
いっこずつ取り組んでいきます。
さて、今回もメンタル系のお話です。
わたし個人の感想にすぎませんので、ご了承ください。
さてさて、最近、ずっとむかしに、高校生の頃にあった、わたし的にはその後に神経症を発症するに至ったのと同じような状況に見舞われました。
まあ、神経症を発症したのは、そもそもわたしの思考回路がそういう風になっていたからであって、その状況がなかったとしても、いずれそうなっていたでしょう。
で、焦る気持ちやどうしようどうしようという気持ちを味わって、そして、どうしようもないし、どうすることも出来ねえなと開き直り、いまやれることをやってみようという結論に至りました。
目の前のことに集中し、そして、同時に過去の自分の心に思いをはせました。
あの時は、「自分はもうおしまいだ」「どうしてわたしがこんな目に」と、すごい自分を憎んでいたな。自分を励ますでも慰めるでもなく、自分を責め立てていた。
「こんな自分」が憎くて憎くて、大嫌いだったな。
それは若さゆえの厳しさだったのかもしれない。もしも神経症にもならず、その方向で頑張り続けていたら、どうなっていたんだろう。
視野が狭いというのは、まあ、どうしようもない。その頃は家と学校がすべてでしたから。
その中で認められる人間像に寄せていきたかった。落ちこぼれたくなかった。できれば良しとされる人間でありたかった。
そういう立派な人間でありたいのに、なれない。
ほかの人たちには簡単なことが、わたしには難しい。
そんな自分を憎悪した。
…今なら、実は世の中はわたしにそんなことをしろと求めていないし、実はわたしが悩み苦しんできた自分の弱さ醜さすらあっさりと受け流されてしまうほど、広くて深いところだったと思える。
残念ながらわたしはちっぽけで、この世に何の影響も与えられない。わたしが死んだところで、当たり前に太陽は昇る。
なんて無常。
でも、あの時目指した理想郷よりは、かなりマシ。
わたしが自分の頭で考え抜いた、「良い」とされるものを詰め込んだ世界。
自分を徹底的に漂白して、殺して、消して、「カタチだけ」残ればいい、評価されればいいと、本気で思っていたから。
わたしはかつて、ものすごく自分を「優しい」人間だと思っていた。
『優しい』と思われる行動をとって、自己犠牲も厭わない態度でいれば、「優しいね」と言われる。評価される。しかも、そんな言葉に謙遜して、「そんなことないよ」っていえれば、完璧!
心の中は、自己犠牲のおかげで憎しみと恨みでいっぱいだったけど。
そんな心も漂白してしまえばいい。
今さえよければいい。
良く思われたいというその一心で、そこまでやっていた。
そして、本当のところ、わたしには優しさなんてなかった。
「優しい」というのはこういうことだと思って、それらしくやってきたけど、その裏には自分を認めてほしいという気持ちだけがぎっしりと詰め込まれていて、吐き気がした。
最近は、自分を「優しい」と思わなくなったので、たぶん、自己犠牲を減らせてきているんでしょう。…そう思いたい。
いやあ、自己犠牲なんてしちゃいけない、させちゃいけないね。
けっきょく、憎しみと恨みは自分に返ってくるし、そのせいで他人に当たり散らすようになるくらいだったら、そもそも「身の丈に合わない良い評価」を求めるべきじゃなかったんだな。
わたしは身の丈に合わない良い評価が欲しかった。
それでつまづいた。
お金で考えてみれば、収入に対して支出が多すぎた。
自分にはない「優しい」っていう評価を得るために、借金してまで見栄を張った。
自分にはないものだからこそ、その評価が欲しかった。そんな感じかな。
わたしはあの理想郷を棄てたから、いま、自分に優しくできる。
あの時の状況と類似した場面でも、自分を責め立てることなくいられた。
だからたぶん、他人を責め立てる必要もないことだとわかる。
世界はわたしの心を映し出す。
漂白して、色を音を言葉を声を消し、殺しつくすのが理想だった。
わたしを消し去った先にあるのが理想郷だった。
いまではそれは間違いだったと思う。
極彩色の、音に言葉に声に満ちた世界に生きたい。
では、また。