晴れても曇っても雨降っても

目標を探すのが目標。そんな日々。

【日記】大恥をかく!

こんにちは!

めちゃくちゃお久しぶりです。

仕事が忙しいのと、特筆すべきことがなかったためです。

 

去年より仕事が忙しくなり、てきめんに、食費が高騰しております( ;∀;)

いやぁ、月の集計するとき「やっちまったな」って、毎月思ってる。うん、毎月…。

 

ま、過ぎたことはしよーがない!

 

で、今回もメンタル系のお話です。

これはわたし個人の気持ちですから、こんな考えの人がいるんだなって思うくらいでお願いします。

 

さて、タイトルですが、これはわたしの目標です!

 

「大恥をかく」

です。

 

なにを言っているかというとですね、まあ、わたしのこれまでの行動原理、志向を一言で言うと、

「無難」

なんですよね。

 

「普通」にあこがれていたし、寄らば大樹の陰、長い物には巻かれよ、自己主張が一番の苦手。

なんていうか、『正しいか、正しくないか』をものすごく気にする。それも、『世間一般』が主語であって、『わたし』がどう思うかは二の次三の次。

 

まあ、それがわたしの生存戦略、ライフスタイルだったということです。

それがうまく機能していたことももちろんあります。でも、今ではそれが負担になってきている、というより、自分に合わなくなってきたようなんです。

 

なので、今の自分が求めているものを手探り状態ではありながらも、つかみ取っていきたい。

たぶん、「これ」と言えるようなぱっとわかるようなものではないのだろう、と思っています。 

その気づきのきっかけとなってくれそうなものが、わたしの「恥ずかしい」

 という気持ちです。

 

 

なぜならそれは、

わたしが全身全霊をかけて避けたかったこと

 だからです。

 

まあ、かっこつけなんですよね。カタチだけ整っていても空虚だってわかっているのに、どうしてもカタチだけでもと求めてしまう。

心の奥底にあるのは、ぬぐいがたい空虚さなんでしょう。

空虚だから、なんとかして体裁を整えて、そのみじめさから逃れたい。

 

みじめさから本当に自由になる、ブレークスルーするためには、どうすればいいのか?

 

とても単純で、みじめであることを認めて、そこから新たに始めてみるしかないんでしょう。

わたしはみじめなんかじゃない!って言いたくて、カタチを求めているわけですから、そもそものみじめさを受け止められれば、カタチを求める必要は消えるのです。

 

そうやってみじめさを真面目に受け止めようと思うと、不思議なことが起こります。

わたしが最近まで一番みじめなことだと思っていたことは、結婚できていないこと、子どもを産んでいないことなんですが、そのみじめさがかなり勝手に薄まりました。 

 

わたしは異性から愛される魅力的な存在ではない、誰かを心から愛せている存在ではない。

 

そんな気持ち。

でも、よくよく考えてみれば、この状況(未婚)はわたしの望みそのものでもあるんです。

わたしがずっと心の奥底で恐れていたのは、責任をとること。

あるいは、この人だ! と決めること。

そして、失敗すること。

 

まずなによりも失敗することを考えている時点で、かつてなんらかの失敗があり、その傷を後生大事に抱え続けているわけです。

 

それはべつに恋愛のつまづきというわけではなくて、たとえば、大好きな友だちがいて、わたしはその子のことが一番好き! と思っていたのに、その子は違う子のことが一番の友だちだと思っていたことを知った時の衝撃、とでもいいましょうか。

 

わたしはきっと、その時に「わたしは失敗した、間違えた」と断じたんでしょう。

自分が一番に好きな人から、一番好きだと言われなければ、好きになる価値もない。

そして、自分の好意をオープンにすることは危険な行為となりました。

わたしは友だちに好きな人の相談なんてできず、自分の好意は徹底的に隠して、相手のほうから働きかけてくれることを切に願っていました。

 

まあ、無理だよね。(笑)

 

大好きなんだったら、大好きなままでよかったんだよ。

たしかに、思いが通じ合わない気がして悲しかったけど、それで自分の気持ちを引っ込めてしまうなんて、もっと悲しい。

 

自分の気持ちを信じてあげればよかった。

大切なのはうまくいくいかないってことじゃない。誰かの一番になることじゃない。

もちろん、相手の気持ちを無視することでもない。

自分の心の中だけは自由なんだから。相手の心も自由だ。

 

好きになった人とうまくいかなかったとしても、『酸っぱい葡萄』みたいに、「フン、べつにあんな奴どうってことないよ」と自分の心を滅多打ちにするのはやめよう。

わたしは確かにその人に惹かれ、好きになったけど、相手はわたしに対してそういう気持ちを抱かなかった。ただそれだけ。悲しいけど、ただそれだけ。

 

わたしがわたしの気持ちを守らないで、だれが守ってくれるというのか。

 

結局、わたしが傷ついていたのは、誰かの一番になれなかったことでも、世間体を守れるようなステイタス(友情、愛情、結婚、こども)を得られなかったことでもなく、相手の態度次第で自分の気持ちをあっさりと投げ捨て、打ち捨て、踏みにじる、信頼ならない自分自身に対してでした。

 

自分の気持ちに責任を持つ。自分で自分の気持ちを守る。

その覚悟を決めて、そして、少しずつでも自分の気持ちを現していきたい。

うまくいかなければ傷つくだろうけど、でも、それは失敗じゃない。

わたしがわたしを見放して見捨ててしまうことこそが、最大の過ちだった。

 

とはいえ、リハビリなので、ちっちゃな恥からはじめていきたいと思っています。

というか、特筆すべきことじゃないけど、職場ですでにちっちゃな恥ずかしいこと(自分の気持ちを表現すること)を始めています。

ありがたいことに、「あ、そうなんだ~」って感じで受け入れてもらえていて、なんでいままでやってこなかったんだろうと思ってしまいますが、まあ、これがベストタイミングだったんでしょう。

 

これまでは、ほんとに『アウトサイドイン』な考え方だったんだと思い知らされました。いや、今だって、油断すればすぐに『アウトサイドイン』になってるんでしょうね。

周囲の環境や、取り巻く人々、わたしのステイタス、スペック、それがわたしの幸福を決定するのだという考え方。問題は『外側』にあり、それさえ解決すれば、わたしは幸せになれるのだという信念。

誰かの一番になれれば、結婚出来れば、子どもを得られれば…。

そうすれば、自分を頼りにできる。やっと。

 

でも、そんなときは来ない。

 

だから、弱くてブレブレで、卑怯で、この世の誰よりも頼りにならないこのわたしを頼り信じる。

わたしの内面から始める。インサイドアウト

 

コヴィー博士の『七つの習慣』のなかで、こんな引用がありました。

「探究に終わりはない。すべての探究の最後は初めにいた場所に戻ることであり、その場所を初めて知ることである」(T.S.エリオット)

 

ええ、何度でも戻って、何度でもわたしを知ります。

 

いつか、「あなたが好きです」と、大恥をかけますように!

 

では、また。