【日記】かけがえのない物語
こんばんは!
今回は、最近わたしのなかで感動しているお話がありまして、そのことを書きたいと思います。
再燃しているというか、まあ、思い返すたびに涙が出ちゃうんですよ。
前回は『白雪姫』のことを書きました。わたしが一から考察したってわけではなく、むかし読んだ本の内容を思い出しながら書いたものです。
昔から長く語り継がれてきた物語には、なんらかの示唆があるのではないかと思います。おとぎ話って、簡潔ですけど、想像力をかきたてられる。
『白雪姫』で、わたしが最重要と思うのは、『七人の小人』です。
小人たちとの暮らしだけは、なんだかいやに現実的なので。
さて、本題へまいりましょう。
これはメンタル系のお話というより、わたしの好きなお話のことを語るだけです。
ご了承ください。
わたしが好きで、思い出すたびに涙がこみあげてくるお話。
それは、『赤毛のアン』です。
ちょー有名なので、おそらく題名を知らない方というのはいないんじゃないかな。
わたしとしては、この世のすべての女の子に読んでほしい本、ナンバーワンです。
ざっとあらすじ。
カナダのプリンスエドワード島の田舎町アヴォンリーに住む、老いた兄妹、クスバート家のマシュウとマリラが、マシュウの野良仕事を手伝わせるために孤児院から10歳くらいの男の子を引き取ることにしたが、手違いでやってきたのがアン。おしゃべりで夢見がちで、想像力豊かだけど、生い立ちのせいでどこか悲観的なところもあるアンが、自然豊かなアヴォンリーで成長していく物語。
わたしが最も感動するのは、マシュウとアンの関係です。
マシュウはかなり無口でシャイで、この世の中でまともに話せる女性は妹のマリラと近所に住んでいるリンド夫人だけ。年は60歳くらいで、とても不格好らしい。
どんな年頃の女性も苦手だというのに、10歳くらいの男の子を駅に迎えに来たつもりが、待っていたのは11歳くらいの女の子。駅に置き去りにはできず、とりあえず家に連れて帰り、一切合切を妹のマリラに任せようとしたけれど、馬車に乗ってからもずっと楽しそうに話し続けている寄る辺ない女の子のおしゃべりがまったく愉快に思えてきて、グリン・ゲイブルス(屋号『緑の切妻屋根』)に着くころには、この子を引き取りたいと思うようになっています。
マシュウは無口で、議論で押し切ろうなどとはしないけれど、こうと決めたら覆すことがない人。マリラも、ほんの少しの間ではあれど、アンの突拍子の無さに惹かれている自覚があり、クスバート家で引き取れないなら「おそろしく働き者で人をこき使う」家にアンが引き取られそうになったことで、迎え入れる決心をします。
はじめからマシュウとアンはどこか通じ合うものがあったようで、アンは自分のおしゃべりを身を入れて聞いてくれて、否定することのないマシュウが好きで、マシュウは無口だけど自ら話をしなければならないとか、適切に相槌をうたなければならないとかがなければ、おしゃべりをする人のことは好ましく、アンのおしゃべりも好きです。
マリラは、女の子を引き取るのならしっかりと育て上げなければならないと、教育の義務を負っていたので、厳しく接することがあります。が、それは隠しきれない愛情を自分でもわかっていたためで、ことさら厳しく接しちゃうんですよ。マシュウはただひたすらアンを可愛がればよかったので、そこは楽だった。
一番好きなエピソードは、音楽会のための洋服をマシュウが準備する話です。
マリラは、あんまり贅沢させたり浮ついた気持ちになるような華美な服装は教育上良くないと決め込んでいたため、はじめのうち、アンには周りの女の子たちよりもかなり地味な服装をさせていました。
マシュウはアンと友だちの女の子たちの様子を目撃し、違和感を覚えます。
もちろん、うちのアンは素晴らしくてかわいいな、と思っていたのですが、なんか変だなと。何が変なのか、悩んだ末に理解しました。アンの服装がとても質素であることに。
アンの教育はマリラが担っているため、口出しすることはないし、きっと深い考えがあってのことだろうと思ってはいたけど、ちょうどクリスマス直前だったために、きれいで最新流行の素敵に袖のふくらんだ洋服を贈ることにしました。
が、そもそも服装、それも女の子の服ことなんてわからず、マリラの助力は願えないしで、それでもどうにか買いに行ってみたものの、出てきた店員がてきぱきとした若い女性(恐怖の対象)だったため、正気を失ったマシュウは要りもしない熊手と黒砂糖を買って帰ることになったのでした。
散々だったけども、これで自分だけでは対処できないことを悟り、妹以外で話のできるリンド夫人を頼ると、あっさりと悩みを解消してくれました。
クリスマスの朝、マシュウから新調した服を贈られると、アンは感激のあまり言葉も出ず、涙があふれるほど。
アンにとって最良のクリスマスだったでしょう。
確か、続編(アンシリーズ)で、大人になったアンが、友人や夫や子どもたちからたくさん素敵なプレゼントをもらってきたけど 、マシュウ小父さんからもらったあのパフスリーブのことはいつまでも色あせない思い出だと言ってたような…。うろ覚えだけど。
アンは成長して(5年後、16歳くらい)、空想や想像力を失うことなく勉強に励み、大学へ進むためのエイヴリー奨学金を獲得します。(学院でひとりだけ獲得できる)
そのことをマシュウもマリラも誇らしく思ってくれているのですが、年老いても仕事の手を緩めずいい加減にできないマシュウがとても疲れている様子を見て、ついアンはこんなことを言います。
「わたしが男の子だったら、マシュウ小父さんの役に立てたのにね」
もともとは、マシュウの野良仕事の手伝いをさせるために男の子を引き取ろうとしていたわけなので。
「そうさな、わしには12人の男の子よりもお前ひとりのほうが良いよ」
マシュウはアンの手をさすって続けます。
「いいかい? 12人の男の子よりいいんだからね。そう、エイヴリー奨学金をとったのは男の子じゃなくて、女の子じゃなかったかな? 女の子だったじゃないか、わしの娘じゃないか、わしの自慢の娘じゃないか」
いつもの内気な微笑を浮かべて、アンにそう言いました。
わたしは、この、「12人の男の子よりお前ひとりのほうが良い」というのは、言い方はほかにもあるかもしれないけど、だれもが子どものころに親からそんなふうに思ってほしい言葉じゃないかなと思うんですよ。まあ、親じゃなくてもいいかもしれないけど。
とはいえ、これは、ただただ言葉だけを連ねればいいということじゃなくて、たとえばアンなら、もともとは野良仕事に役に立つ男の子が求められていたところにやってきて、女の子であるにもかかわらず引き取ってもらえたという、いわば、「引け目」みたいなものが、ほんのちょっぴり胸にわだかまっていたかもしれません。
もちろん、普段はマシュウとマリラの愛情を疑ったりしないでしょうが、ひょっとすると、「わたしがここにいて、ふたりにとって本当に良かったのだろうか?」と自分自身を疑わしく思えてしまう瞬間があったのかも。
でも、マシュウはその疑いを退けました。完全に永遠に。
アンは、マシュウにとってほかの誰にも替わることのできない唯一無二の存在であると伝えました。
もちろん、この言葉をかけられる存在はアンにとってはマシュウだけなので、マシュウもまた唯一無二です。
かけがえのない、ほかの誰にも替わることのできない、「わたし」と「あなた」。
ふたりで紡いだ、かけがえのない物語こそが愛ではないかと思います。
マシュウはアンがやってきた夜にマリラから、「あの子がいったい、わたしたちのなんの役に立つと言うんです?」 と問われて、「わしらのほうで、あの子の役に立てるかもしれんよ」と答えていました。
でも、それは間違いだったと後にふたりは気づきます。
アンは、マシュウとマリラにとっては祝福だったと。アンがやってきたのは、間違いなんかじゃなく、ふたりにとって必要だという神さまの思し召しゆえだったのだろうと。
あ~、言いたいことが言えてないですけど、とにかく、『赤毛のアン』は最高です!
今回のはうちにある『赤毛のアン』を読みながら、思い出しながらだったので、
大半泣いてました(笑)
でも、感動を伝えるって難しいわぁ。
わたしが泣いててどうすんの。
まとまりのないまま終わります。
では、また。
【日記】『白雪姫』を考える
こんばんは!
年度末ですね~。
ばたばたしてます。
最近、車の運転をしながら、すごく感動する話を思い出して、泣きながら出退勤してます。花粉の季節なので、ごまかしながら。
で、そのお話のことを書きたいなぁと思っていますが、その話をする前におとぎ話の『白雪姫』のことを書きます。ちょっと思うことがあって。
まあ、いつも通りメンタル系のお話です。
これはわたしの個人的な感想ですので、ご了承ください。
さて、まずは白雪姫です。
有名なグリム童話です。グリム童話とは、グリム兄弟が集めた昔話のこと。グリム兄弟が創作したのではなく、昔から語り継がれてきた物語を収集したものです。
昔から言い伝えられてきた物語には、なんらかの意図が込められている、という見方で解釈した本を昔に読んだことを思い出しながら、そのことを書いていきたいと思います。(うろ覚えです)
『白雪姫』は母から娘への嫉妬、そして娘の克服の物語である、という見方です。
まずは、『白雪姫』のあらすじ(ウィキペディア参照)から。
(知ってる、という方は読み飛ばしてくださいね)
とある国のお妃さまが、「雪のように白い肌、血のように赤い唇と頬、黒檀の窓枠のように黒い髪」をもった美しい子どもが欲しいと願い、その願いの通りのお姫さまが生まれた。その優れた容貌から、「白雪姫」と呼ばれるお姫さまは、年々美しく成長していく。お妃さまは魔法の鏡を所有しており、「この世でいちばん美しいのはだれ?」と問いかけると、「それはお妃さまです」と答えている間は満足していられたが、ある時から、「それは白雪姫です」と答えるようになったことから、妬みのあまり白雪姫を殺す決意をする。猟師に命じて白雪姫を殺害し、その肝を食べようとしたが、猟師は白雪姫を哀れに思い逃がしたため(とはいえ、獣にでも殺されるだろうと思っていた)、偽装するためにイノシシの肝を持ち帰る。森をさまよい七つの山を越えて見つけた山小屋で、白雪姫は七人の小人に出会い、家事をすることを条件に住まわせてもらうことになる。
白雪姫は死んだと思っていたお妃さまは、いつものように魔法の鏡に問いかけるも、「それは白雪姫です」という答えに、白雪姫が生きていることを知る。もはや自ら出向いて始末するしかないと、物売りに扮して白雪姫を殺そうとする。
二度目までは小人たちの助けで生き延びたものの、三度目の毒リンゴでは小人たちでも救うことはできず、死してもなお美しい白雪姫をガラスの棺におさめて弔うが、そこに偶然通りかかった王子さまに見初められる。死体でも構わないからと、棺ごと連れていくが、移動する際に棺が揺れて白雪姫の喉から毒リンゴのかけらが吐き出され、蘇生する。生き返った白雪姫をみた王子さまは喜び、そのまま自分の国へ連れ帰り結婚する。結婚式では、お妃さまは真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされ、死ぬまで踊らされた。
まず、グリム童話の初版では、お妃さまは一貫して白雪姫の実母です。グリム童話はグリム兄弟の創作ではないのですが、おそらく、いろんな配慮の結果、第二版以降は可愛い娘が生まれてほしいと願っているのが生母で、嫉妬に狂って殺そうとしているのは継母ということになっているようです。
美しい娘に育ってほしいという『良い母』と、自分よりも美しいと知って、嫉妬のあまり殺そうとする『悪い母』がひとりの人間の中にいる、ということを示唆しているのでしょう。
また、お妃さまの夫、白雪姫の父、王さまに関する記述はありません。生きているのか死んでいるのかもわからない。白雪姫はこんなにひどい目に遭っているというのに、「お父さん助けて」とも、「お父さんはどうしてわたしを置いて死んでしまったの」とも考えません。夫、父の影がとても薄いです。暴走する妻を止めることもできないし、窮地に陥った娘を守ることもできない存在です。
白雪姫は山小屋で七人の小人と出会います。このお話にはあんまり登場人物はいないのですが、いきなり七人も出てきます。おそらくは比喩で、たくさんの人々、といったところでしょう。そして、『小人』。これは、白雪姫の恋愛対象外である、ということを示しているんでしょう。白雪姫にとっても、小人たちにとっても。お互いにまったく恋愛、ぶっちゃけ、性的な意味での相手にはなり得ないということです。
わたしは、白馬に乗った王子さまよりも、この七人の小人たちのほうが白雪姫に先に出会うことが重要なのだろうと思います。
お城を追い出されてすぐに王子さまに助けられるという、それこそ夢物語でもいいはずなのに、その前に、小人たちとの共同生活を送る必要がある。
家をきれいに整え、食事を作り、衣服を繕う。小人たちが白雪姫に求めているのはそういうことだけで、絶対に性的な目で見てくることのない、脅かされることのない安全な空間で、協力し合って暮らす。
小人たちはかわいい白雪姫がいてくれてうれしいし、白雪姫も小人たちに守られて、ひょっとすると生まれてからはじめて安らぐことができたかもしれません。
小人たちはお妃さまが白雪姫が生きていることを知れば命を狙うだろうと、白雪姫に警戒しなさいときつく言いつけますが、白雪姫は三度もお妃さまと接触した挙句、怪しさ満点のリンゴを口にします。
いかにも不審な物売りに対し、あまりにも無防備な白雪姫は馬鹿なんでしょうか?
おそらく、それが母であるお妃さまであること、自分をねたんで殺そうとしていることを、白雪姫は誰よりもわかっています。
でも、それでも「そんなはずはない」「愛されていないはずがない」「殺そうとしているんじゃない」と、それを証明するために、毒リンゴすらかじりました。
しかし、結局のところは三度とも助けられ蘇生していることから、白雪姫は、最後の一線では決して警戒を怠らなかったともいえるのではないでしょうか。本当に愚かだったなら、とっくに死に至っていたでしょう。
さて、毒リンゴを食べた白雪姫のことは、小人たちでは救うことができませんでした。小人たちの限界です。そこで、白馬に乗った王子さまが登場します。
王子さまということで、この登場人物には白雪姫との恋愛・結婚が許されています。ですが、はっきり言って記述が少なく、王子という身分だけしかわかりません。(死体愛好家とか深読みされているし)
でも、最後の一文で納得できます。
白雪姫と小人たちだけでは決して到達できないエンド。
お妃さまの処刑です。(許すエンドも存在しています)
小人たちは白雪姫が身を守れるようにアドバイスをしてくれますが、武器を持ってお妃さまに立ち向かうことはしません。(類話には武闘派の小人さんもいるようですが)
白雪姫が幸福に生きるには、自分のために、お妃さまと戦わなければならない。それも、逃げも隠れもせず堂々と。そして勝利を収めなければならない。
記述のほとんどない『王子』は装置のように思えます。
文字通り殺されかけた白雪姫が、ようやく母からの愛を諦め、母は自分を愛していないという現実を受け入れたときに現れる装置。
小人たちと出会っていなければ、生きる気力もなくしていたでしょう。幸福を知らなければ、幸福に生きようとも思えない。だからこそ、王子さまよりも先に小人たちと出会う必要があるのです。
しかし、小人たちとの暮らしをただ続けるのでは、常にお妃さまの影におびえて暮らすことになります。このどうにもならない状況を打ち破るために必要になるのが、王子さまです。
こう考えてみると、白雪姫は自らの幸福のため、お妃さまの下手な芝居に乗ったふりをして死にかけ、あえて絶望の底からよみがえろうとしているみたいですね。
そしてよみがえったのなら、王子さまとともに一切の躊躇なく、容赦なく、お妃さまを処刑する。お妃さまが行ったような生ぬるい方法ではありませんし、しっかりと最期まで見届けたでしょう。
まあ結局、『白雪姫』は、
「不運にして両親からの愛に恵まれなかったのなら、世の中の善良な人々と適切にかかわりを持ちなさい。そこで愛と幸福とを知ることができたのなら、愛のなかった両親のことは(心の中で)完全に殺し、自分の幸福をつかみなさい」
という教えでしょうか。
親だからと言って、子どもに嫉妬しないわけではないよ。必ずすべての親が子どもの幸福を願えるわけではないんだよ。そして、血のつながりがなかったとしても、あなたの幸福を願い、勇気を与えてくれる人も、この広い世の中にはいるんだよ。だから、諦めずに生きていてほしい。
そんな教訓。
予想以上に長くなった…。
ではまた。
【日記】人生を聴く
こんばんは!
今夜はギョウザです。ニンニクギョウザです。
あ、出来合いのなんですけどね。
めちゃくちゃ臭くなるやつです。
大好きなのですが、日曜日に誰にも会わない予定のときにしか食べられません。
それに、たぶんというか確実に、胃腸が弱いので、あんまり頻繁に刺激の強いものを食べないようにしたほうが良い。
そんなわけで、ひさびさのニンニクギョウザを堪能。
至福はここに。
さて、今回もメンタル系のお話です。
これはわたし個人の感想、気持ちを書いたものですから、良いも悪いもなく、ただ思ったことを連ねています。その程度のものであることをご了承ください。
最近よく見るようになったYouTubeチャンネルで、『傾聴』のことを取り扱っていました。
ぶっちゃけ、こういう風に話すと良いよということではなく、そもそも信頼関係が築けているか? 相手を支配しようとしていないか? その前提が満たされなければ、傾聴スキルなど意味がないとのこと。むしろ、支配のための道具に成り下がることすらあるようです。
そのなかで、傾聴スキルを6段階にわけたものを紹介していて、それがとても参考になりました。
1.聞く姿勢すらない
2.事柄(事実)さえも聞けない
3.事柄(事実)は聞ける
4.気持ちを理解しようとはする
5.気持ちが理解できる
6.人生を聞くことができる
さて、わたしの傾聴スキルはどのレベルかな、と考えて、たぶん、「3」だろうなと思いました。
たぶんきっと、事柄は聞けてると思う。出来る時には気持ちを理解しようとしているとも思いたいが…。
あ、これはわたしの場合は自分自身への傾聴ということです。
前に記事にしたのですが、わたしはいい歳で未婚。子どももいないことを引け目に感じています。これは現在進行形です。
結婚も子どもも手に入れた友人にめっちゃ嫉妬してます。
これは、わたし自身を事柄で判断しているということだと思いました。
『未婚、子どもがいない』=不幸、恥ずかしい、引け目、劣っている
『既婚、子どもがいる』=幸福、立派、誇り、優れている
ってね。
ほんとうは、そんなに単純ではないことはわかりますけどね。
体裁、世間体、常識、それを基準として自分を見ているから、そういう気持ちになっていることは理解できます。
注意深く聴けば、「未婚です」と他人に触れて回るのはイヤだけど、『未婚である』という事実自体がわたしをさいなんでいるわけではないことはわかる。
だって、しょうがないじゃない。結婚に至るような人間関係を築けてこなかったというだけのこと。『わたしの』人生では今のこの状態は、異常ではない。
とても順当なのです。
ただ、これからについては、できるのなら愛する人を見つけたいと思っています。
自立して、『わたしが』愛することを学ぶために。
そして叶うなら、相互依存、分かちがたい『わたしたち』として生きられるように。
まあ、まずは自立なんだけど。
そう、例えるなら、子どもを持つ親が、子どもの成績が悪かった時に、
「こんな成績恥ずかしい、○○さんは満点だって(だからお前も満点とれ)」
と言うようなものです。
子ども自身のことが一切見えていないから、言えることです。
事柄、点数だけです。見えているのは。
成績が悪いと子どもがのちのち大変だから、勉強するようにこんな言い方をしているだけ、かもしれませんが。
そして、親自身も自分の事柄だけしか見てもらえなかっただけかもしれません。
勉強していなければ、点数が取れないのは当たり前で順当なことです。
そもそも勉強する習慣はあるのか? 授業を理解できているのか?
そういった部分での助けを子どもが必要としているのなら、環境を整えてやる、協力することは親にできること、かもしれません。
「こんな成績じゃダメ、もっと良い成績をとれ」というだけでは全く具体的じゃないし、アドバイスでも何でもなく、役に立たないです。むしろ、害悪にしかならないと思います。誇りを挫きます。
わたし自身も、「結婚できてない」という事柄だけで、「早く結婚しなければいけな
い」「結婚できないなんて人間としてなにか致命的な欠陥があるんじゃない?」って感じで、セルフで害毒を吐いていますね。
「こんな『わたし・人生』じゃダメ、もっと世間に誇れる者になれ」
という、自分自身へのメッセージです。破壊・破滅的メッセージですね。
…。
ふっざけんな!(#^ω^)ですね。
ああ、今ならこんな中身スッカスカな言葉で頑張るなんてバカバカしいことだと明確に理解できます。
害毒を吐いているわたし自身を責めるべきか?
罰さなければならないか?
事柄だけを見るのならそうなるでしょうが、わたしが自分自身に害毒を吐いていたのはどうしてなのか?
たぶん、例にした子どもを持つ親と同じ。「こういう状態(好成績・結婚)」が望ましく幸福にしてくれるのだという信仰をもっていたというだけ。
そして、圧倒的に支援力が乏しかったというだけ。
端的に言えば、力不足。
わたしが歩んできた人生を見渡せば、これは順当なのです。
至極まっとうな結果です。
だから、罪はなく、罰も必要ない。
そして気づけたのなら、変わればいい。
もっと具体的にわたしを支え、望む方向へ進んでいけるように。
そのためには、注意深くわたしの気持ちを、『人生』を聴いていかなければならない。言葉にすればとても簡単で単純なことだけど、実行するのは難しい。
でもそれこそがわたしにしか歩めない、『わたし』の人生。
いつか、自分のことも他人のことも、『事柄』だけじゃなく、その『人生』に思いをはせて理解できますように。
では、また。
【日記】明鏡止水を目指す
こんばんは!
暖かくなったり吹雪いたり、揺り返しがすごいです。
最近、とみに車の運転をする機会が増えて、なんだかちょっと、運転技術が向上している気がする…!
車を購入するきっかけはいまの職場への異動なのですが、すごくありがたく思っています。でも、異動が分かった時には「うそだろ…_| ̄|○」と思ってたのだから、人生、どう転ぶかわかりませんね。
自分にできることが増えるのは、とてもうれしいです。
さて、今回もメンタル系のお話です。長くなりました。
わたしの個人的な感想ですので、違うなぁ合わないな~と思ったら、それはそれでよいのです。
わたしがこの記事で書きたいのは、そういう正直な気持ちをそのまま受け止める姿勢のことなので。それに、わたしの解釈なので誤っていることも多々あると思います。
どこから書いたらいいのか、ちょっととっちらかった文章になるかもしれませんが、お付き合いいただける方はよろしくお願いします。(あれ? いつもか…)
ちょっと遠回りになりますが、わたしが精神的不調を抱えて精神科にかかったころから振り返りたいと思います。
正直、20年ほど前なのですべて克明に記憶しているわけではありませんし、ナチュラルに記憶を改ざんしている可能性もありますが、『いまのわたし』の記憶であることは違いありません。
さてさて、当時、わたしは身体的な症状に悩まされていました。だから、最初にかかったのは精神科ではなかったです。でも、どうにも原因もわからないし、改善もしない。そこで、こういうお医者さんがいるよ、と、『精神科』を勧められたのでした。
高校生だった私にとって、『精神科』にかかるというのは、言っちゃあなんですけど、
「人生終わったな」という絶望感でいっぱいでしたね。
今は心療内科とか、もっとライトな感じのところもありますが、その当時はそんなのは都会にしかなく、すごく恥ずかしかったんだよなぁ。
でも、そこで見てもらって、心身症、神経症、いわゆるヒステリー症状というものだと伝えられました。
ヒステリー症状というのは、金切り声で泣きわめくとかじゃなく、内面の葛藤をうまく心の中で処理できずに、身体のほうに症状が出てしまっていることなのだそうです。
診てくれたおじいちゃん先生が言うには、「あなたにとってはとてもつらいことだと思うけど、症状は軽いよ」とのこと。
でも、つらくてつらくて仕方なかったわたしにとっては、症状を抑えてくれる薬こそが大事で、おじいちゃん先生の言うことなんてほぼ聞いてなかったですね。
自分の内面を他人に打ち明けるなんて、その当時のわたしにはできませんでした。それは、恥ずかしいとかみっともないとかもありますけど、そもそも、自分の内面自体が良くわかっていなかったように思います。
まあ、もしわかっていてもプライドが邪魔してなにも言えなかっただろうけど。
おじいちゃん先生の元へは、薬をもらうためだけに通っていましたが、必ず雑談させられました。(←言い方)
繰り返し言われていたのは、おそらく、
「あなたはおかしくなんかないよ」
ということだったと思います。
治療する側ではあるけど、自分にだってこういう失敗や不安があったりするんだよ、それがいまちょっと、あなたは強めに出てしまっているだけなんだよと。
この『症状』さえなければ! と思っているかもしれないけど、それは、
あなたのこれまでの人生の上で必要なものだったんだよ。
あなたは、自分がオカシイ人間だからそうなったのではないかと恐れているだろうけど、それは違う。
あなたはとてもまともだからこそ、苦しんでいるんだよ。
そのころのわたしはいつも、「間違ったことを言っていないかしていないか、おかしなことを言っていないかしていないか」と戦々恐々としながら自分を厳しく監視し、『間違ったこと』をしないように必死に抑えていました。
それなのに、こんなおかしな症状に見舞われて、もう、筆舌に尽くしがたく自分自身を嫌悪していましたが、「あなたはとてもまともだよ」と言われた時はさすがに瞼が熱くなりました。
『間違ったことをしない』外向きのわたしだけではなく、『症状』を呈してまで苦しさを訴えている『内なるわたし』がいることを体感できたとでもいいますか。
おそらくですが、外向きのわたしはもちろん、その『内なるわたし』にも語り掛けてくれていたんでしょう。妄想かもしれないけど。
丸ごとの『わたし』を肯定してくれていたように思います。
他の患者さんにどう対応しているのかまではわからないですが、もちろん『患者』として診ているけど、それだけじゃなくて、『人間』として見てくれた感じがします。『問題をかかえた患者』ではなくて、『困っている後輩』に人生の先輩がエールを送ってくれたというような。
実際は、すごい専門知識を駆使した治療だったのかもしれないけど、でも、どうしても、おじいちゃん先生の雑談としか思えないんだよなぁ。
だって、実をいうとわたしはそのとき下された診断名も覚えてないんですよ。確かこんなんだったなというおぼろげな記憶。たぶん、最初に教えてもらっただろうけど、そのあとはずっと「最近どう?」からの雑談だったので。治療って感じがなかった。
「自分(おじいちゃん先生)には言えなくてもいいから、あなた自身の気持ちを表現していくと良いよ」とか、「薬は癖になるから、必要なくなったとおもったら飲まないようにしてね」とか、わたしのその後に影響を及ぼす言葉も、すごく何気ない会話の中で出てきていました。
結局は、わたしが引っ越すことになり、数か月のかかわりでしたが。
まあ、ぶっちゃけるとわたしのためを思って言ってくれていた言葉の数々も、
「コイツは医者になれるくらい優秀でめぐまれているから、わたしを見下して偉そうに言ってるだけだ。わたしの苦しみをわかるわけがない」
と、バッサリでしたけど。(笑)
次にかかったお医者さんは、ものの見事に薬を出すだけで、1分で診療が終わってました。あの頃は、そのほうがありがたかったけどね。
その後、通信制大学で心理学を勉強して、心身症といえば、フロイト先生! ということを知り、精神分析(ひとの心は意識と無意識から成り、無意識の囚われが心身に影響を及ぼすという考え方に基づき、無意識を分析していくもの)の考え方に傾倒しました。
「無意識に意識を有らしめよ」はいまもずっと、とても好きな言葉です。
ただ、自分で自分の精神分析するのはいいのですが、いわゆる、カウンセリングで分析されるというのは、わたし、ぜったいにイヤで。
だって、自分でやったほうが早いし。自分のことを赤裸々に語るなんてしたくないし。(こんなブログ書いておいて、まあアレですけどね…)
もちろん、これはわたしの考えであって、個人の感想ってだけです。
他人の考えを混ぜ込みたくなかったんです。どうしても、迎合したり反発したりして、自分を見失う気がして。まあ、それ自体も治療の過程なんですが。
そもそも、他人が分析したものを自分のこととして受け止められる気がしなかったんです。わたしは納得しないだろうなと。中途半端な知識があるので、かなり防衛的になるだろうとも予測しました。
それに、なにかある度に他人に分析してもらわなきゃいけないって、不便だなぁと。
だから、精神分析は好きですが、精神分析的カウンセリングは受けるつもりはありませんでした。
まあ、わたし自身がこういう考え方の持ち主であったため、カウンセラーになりたいと思ったことはないです。そも、自分自身を救うことで手一杯で、他人のことなんて考えてなかったというのが正直なところですが。
そんななか、自分を救うためにいろいろ心理系の本を読んでいて、カール・ロジャーズさんの来談者中心療法(クライエント中心療法)を知ったのです。
このセラピーを受けたいというよりは、この療法において求められるセラピストの三要件を習得したいと思ったんです。
わたしがわたしにとって最高のセラピストになるために。
来談者中心療法(クライエント中心療法)におけるセラピストの三要件は以下の通りです。
・無条件の肯定的関心
・共感的理解
・自己一致
このなかで、もっとも重要だと思っているのは、自己一致です。
たとえば、セラピストが今日会う予定のクライエントに対して、「イヤだなぁ」という気持ちを抱いているのなら、この「イヤだなぁ」という気持ちを自分に対して隠さない、ということです。ここで、「いや、そんなこと考えちゃいけない」とか「気のせいだよ」などと自分に対してごまかしをしないということです。
わたし的には、「無意識に意識を有らしめよ」と同じことでした。
自分自身のセラピストになるのであれば、無条件の肯定的関心も共感的理解もさほど難しくはないだろうと思いましたが、自己一致だけは、ほぼ自動的に自分をごまかしている自覚があったので、これは取り組み甲斐があるなと思ったのです。
自己受容とも似ていますね。
明鏡止水とも思いました。
明鏡止水とは、邪念や疚しさがなく、澄み切って落ち着いた心の状態のこと。
イメージとしては、無意識の海の底までも澄み切って、なにひとつごまかしも隠し事もない状態。
ま、そんな状態になることは難しいでしょうが、ずっと目指しています。
来談者中心療法では↑のようにセラピストの態度が重要になってくるのですが、なんだか、あのおじいちゃん先生は、この要件を満たしていたのでは? わたしは、知らぬ間にセラピーを受けていたのでは? と思ったのです。
事実はわからないですけどね。
ひさびさにカール・ロジャーズの名前を見聞きして、思ったことを書きました。
では、また。
【日記】自立・自己受容を考える
こんにちは!
とっくに年明けましたね、今年もよろしくお願いいたします。
良い年になるといいなぁ。
さて、ご無沙汰していたのは、疲れていたからです。
雪疲れです。
かなりの大雪に見舞われた地域(ぶっちゃけド田舎)に住んでいるので、大変でした。控えめに言っても、地獄でした。
これまでは車持ってなかったので、雪かきなんてしたことがなかったのです。
車を出すためには雪かきが必須です。しかも、今年はわりと雪が多い。まあ、仕方ないんですけど。いやほんと、疲れました…。
でも、雪かきを終えて、車を出せる状態にできたとき、
「ああ、はたらくっていいな~」
と思うのだから、まあ単純なんですけどね。
さて、今回もメンタル系のことを書いていきます。
単なる個人の感想です。ご了承くださいね。
最近、『嫌われる勇気』をじっくりと読み直してみたんです。
そこで、前とは違った気持ちになったので、そのことを書きたいなぁと。
たぶん、一年前くらいにはじめて読んだのですが、それから一年で、違う感じ方になっていました。
アドラー先生といえば、『課題の分離』です。
他者の課題に介入しない、他者に自分の課題に介入させない、『境界』の基礎ともいえるものです。しかし、これは入り口にすぎず、目指すゴールは『共同体感覚』です。
『共同体感覚』に至るには、自己受容と他者信頼に根差す、『他者貢献』から得られる『貢献感』を感じられる必要があるそうです。
自己受容というのは、まずは自他の区別、境界を設け、そのなかで自分にできることに注力する。イメージとしては、自分の領土に種をまき、その果実を受け取る。ただそれだけです。
その『自分』というのは、『素晴らしい、望ましい、優れた』自分ではなく、弱々しい自分、憎しみのある自分、妬ましく思っている自分、他人よりも劣っている(と思い込んでいる)自分。「あるがまま」の自分です。
目を覆いたくなるほど悲惨な、この『自分』で生きていく覚悟を決めたときに、自己受容が始まるのではないかな、と思います。
『素晴らしい、望ましい、優れた自分』で生きようとしたとき、それは『承認欲求』を追い求める道に足を踏み入れたことになるでしょう。
アドラー先生は承認欲求を認めません。それは自由ではないからです。おそらく、課題の分離ができていない状態ということなんじゃないかな。
どういうことかと言えば、『承認欲求』とは『他人の承認』という果実を求める気持ちです。それは他人の領土の果実なのです。わたしのモノではありません。
『素晴らしい、望ましい、優れた自分』であったとしても、そのことで他人から果実を受け取りたいと思わないのであれば、それはそれでいいのです。
『素晴らしい、望ましい、優れた自分』であること、そのこと自体の果実を自ら享受し、それで満足できるのであれば。
というより、おそらく、他人から真に『素晴らしい、望ましい、優れた人』だなぁと思われる人は、『自分がどう生きたいか』を追求しただけで、他人の果実を追い求めた結果ではないのだろうと思います。他者の称賛が罵詈雑言に変わろうが、『自分が』どう生きたいかだけが大事なのでしょう。
主語が『わたし』の生き方、まさしく自立しているということですね。
わたしは、自己受容とは自立とほぼ同義なんじゃないかなと思います。この『わたし』で生きるという覚悟です。それは、孤独に通じるとも思います。
本当はもともと、人は孤独なものなんでしょう。
でも、ひとりきりで生きると宣言するには心もとなくて、誰かといっしょが良くて、頼りたくて、自分の責任を代わってほしくて、なにか確かなものにべったりとへばりついていたかった。
ここまで『自分』を放棄して、ドロドロに溶けて、なにが『自分』であったかもわからなくなったヘドロこそが、わたしに残された『自分』を取り戻す鍵なのです。
『自分』を取り戻すためには、孤独へ還っていかなければならない。
怒り、憎しみ、妬み、うらやみ、悔しさ、みじめさ、苦しみ、攻撃性、残酷さ。
その細い道をたどり、自分自身を知り、取り戻していく。
うむ、脱線しましたね。
次いで、『他者信頼』。
これは、正直、まだわかりません。というより、自己受容だってまだまだなわけでして。
たぶん、としか言えないですが、自己受容できれば、自然とその境地へ向かえるんじゃないかなと。
なぜかと言えば、自己受容できれば、『承認欲求』は消えます。
『承認欲求』の根底にあるのは、他者との競争、敵意です。だって、ぶっちゃけ「他人の領土から分捕りたい!」ってことですからね、承認欲求って。そして、同じ土俵に立っているのであれば、他人からも「お前の領土から分捕るよ!」と言われているのに等しい。
それは、敵ですよね。控えめに言って、常時戦争状態ですよね。
自己受容は、その戦争に終止符を打ってくれます。
自分の領土、境界を守り、自分の領土に蒔いた種から生る果実を受け取ることに満足していれば、他者と競争する必要も、戦う必要もなくなるわけです。
自他の区別、境界を設け、そのなかで自分にできることに注力する。その結果を享受することに専念する。
そうすれば、周りにいる人々は敵ではなくなるでしょう。
他者は自分の心を映す鏡と言います。
自分の心から敵意が消えれば、その時には、人々を『味方、仲間』だと思えるのかもしれません。
まだまだ『承認欲求』『競争意識』『敵意』の中にいるわたしには遠いことですが、その境地にたどり着きたいと思ったのです。
一年前には、「これまでわたしががんばってきたことは何だったんだ」「結局ひとりぼっちなんだ」「たどり着く先はそんなものか」と、むなしさでいっぱいだったな。
それが、今回は「みんなを味方だと思える日が来るのかもしれない」「自分の力で生きる、敵のいない世界って、それこそが完全なる自由なんじゃないか」と。
しかし同時に、『自分』が消えてなくなる気もしています。不思議ですが。
自立の先にあるのは、相互依存です。相互依存の主語は『わたしたち』であり、『わたし』は消えてしまうそうです。そういう知識があるからそう思ったのかもしれませんが。
なんというか、『傷』を中心に形作られたわたしが消える。そもそも、『傷』自体が消えてなくなるため、そこから生まれたわたしが消えるって感じ?
『敵意』も、自己受容・自立すれば消えてしまうものであるなら、『傷』も消えてなくなるということなのかな。
というより、本当は、そもそもそんなものはなかったというオチかもしれない…。
『敵意』『傷』、すべてわたしの錯覚であったなら、それが解かれて、その先にはいったいなにがあるのか。
一年前よりは、その先を見たいと思いました。
それは、ひょっとすると、自立に向けて頑張れているってことかな。
コヴィー博士の『7つの習慣』の、第1の習慣。『主体的である』こと。大前提のインサイドアウト。
これを知ったのも、一年ほど前ですからね。
じわじわ~と成長しているのなら良いな。
取り留めなくなっちゃったけど。
では、また。
【日記】嫉妬と恨みの鬼
こんばんは~!
一か月は置かない予定だったのに…。
お久しぶりになってしまいました。
年末ということで、ほんとちまちまやらなきゃいけないこととかがあって、なかなかブログを書こう! というほどやる気が起きなかったのでした。
(またどっぷりと娯楽小説にのめり込んでいたとも言います…)
漢方は続けていて、生理周期が伸びました! てきめんに効果があったので、ちょっと油断したのか、生活が乱れがち…。平日は11時までには寝てるのですが、休みの前の日とか、夜更かししちゃってます(-_-;)
夕べもね、1時過ぎに寝たし。
年末年始のお休みは、できれば規則正しい生活をしたい!
さて、タイトルですが。
これはわたし自身のことです。
わたしは昔から嫉妬深く、恨みを忘れないしつこいタイプなのです。他人と比較する必要はありませんが、「そんなことは忘れる」という人を見かけると、すごいなぁと思います。わたしには到底できないことなので。
とはいえ、嫉妬や恨みをぶちまけるというようなことはあんまりしません。というよりも、残念ながらできません。
そもそも嫉妬や恨みの感情を抱いていることを恥じているので、その感情をダイレクトに表出するということは難しいことでした。
嫉妬してる、恨んでると他人にバレることがなによりも恐ろしかったので。
「わたしにはそんな感情なんてありませんよ~」というアピールを必死にしていたのでしょう。怒り、攻撃性と同じくですね。
でも、ないわけないんだから、無理はそう続かなかった。
いや、無理を続けすぎたのか、あるいは、ようやく嫉妬や恨みも自分のものとして受け止める土台ができたのか、どうしても看過できない事態に陥りました。
中学からずっと仲の良かった友人が結婚・出産・家を購入すると聞いたときの苦しみはすさまじかったです。
いまなら、その苦しみは、「友人としてうれしい」という『祝意』と、「わたしの手に入れていない幸せを手に入れた」という嫉妬と「わたしよりも優れているとでもいいたいのか」という恨み、『呪い』との葛藤であったと思えます。
もちろん、友人には祝意だけを伝えました。
この呪いは、そもそもわたしが身の内で育て続けたものであり、友人には無関係のものなのです。この世の中で起こる現象に心をかき乱されるのなら、それは自分の内に原因がある。あらゆる感情のトリガーを引けるのは自分自身だけです。
もしも、このトリガーを他人が握っているとするのなら、わたしには自分自身に対しどんな対処も不可能ということになります。他人にしか、わたしを鎮めることはできないと、自分は自分に対し無能であることを認めなければならない。
それが嫌だったのです。だから、友人にはお祝いだけを伝えた。けっして、友人への優しさや愛情からそうしたわけではありません。
もしも他人に当たり散らすことでこの苦しみが取り除けるのであれば、相手が誰であろうと迷わずやったでしょう。(実際、このとき親に理不尽に当たったし(笑))
当たり散らしたって、ぜんぜん幸せじゃない。自分がもっと弱々しく、頼りなく思えて悲しいだけ。
だから、自分にできることをやってみる。
どうして嫉妬しているのか、どうして恨んでしまうのか。
それは決してあってはならぬものではない。わたしのすべてではないけど、わたしの大事な一部。
結婚、出産、そういう他人の慶事を呪っている。その気持ちをずっと見続けて、味わい続けて、最近ようやく腑に落ちたことがあります。
ぶっちゃけると、わたしがおそろしく受け身である、
ということ。
「結婚する」ことについて、わたしがまっさきに思うのは、「これで人並みに見てもらえる」であり、「出産」についても同じようなこと。
つまり、「他人からどう見られるか?」が嫉妬や恨みつらみの大元でした。
たぶん、わたしは結婚できたとしても、次に出産できなければ苦しんだでしょうし、出産したところで、子どもが「他人から良く見られる子」であることを意識的、無意識的に強要し、それが叶わなければ、やはり苦しんだでしょう。
「他人からどう見られるか?」「他人からどう評価されるか?」
これがわたしの行動原理なのです。
これを捨てるつもりはないですが、比重を変えていこうと思っています。
受け身の反対は能動。
・わたしはどう生きたいのか?
・わたしはだれが好きなのか?
・わたしはだれが嫌いなのか?
・わたしは仲良くなるためにどう行動するのか?
・わたしの幸福とは何なのか?
・わたしの幸福のためにできることはなんなのか?
評価されるために行動するだけの存在から、自ら評価し自ら行動する存在へ。
まあ、それをやったからって、結婚・出産できる保証なんてありません。
でも、『だれかに評価される』ことよりも、『わたしがどう感じるか』に重きを置く。
結局のところ、わたしがわたしを弱々しく頼りなく思ってしまうのは、『わたしがどう感じるか』よりも、『誰かの評価』こそが正しいとしてきたからです。
嫉妬しない、恨まない、怒らない、攻撃しない、憎まない。
優しくする、親切にする、大切にする、尊重する。
『誰か』が期待し望んだとおりの反応、行動。
でも、『誰か』なんて本当はいない。
それなのに『誰か』に、これだけやったのだから、認めろ、称賛しろ、幸福を与えろと要求し続けたのです。
無意味に叫び続けていたようなものですね。
自ら進んで空っぽになり、エネルギーを浪費し、どうしようもなくなっていく。
そんなおぞましいほどに受け身で、依存的なわたしからはじめる。
嫉妬する、恨む、怒る、攻撃する、憎む。
優しくしない、親切にしない、大切にしない、尊重しない。
これもわたしの人生に必要なこと。
内心の自由は絶対! ですから、心の中を自由に感じてみる。
べつに、それを必ず表出しなければならないわけじゃない。自分の気持ちを心行くまで味わって、そのうえでどうするのかを決めていけばいい。
で、間違ったなと思ったら、やり直せばいい。
友人の幸福を知って、嫉妬し恨み悔しがりみじめさに押しつぶされましたが、実際は、すでにずっと前から嫉妬と恨みと悔しさとみじめさで息も絶え絶えだった。それだけのこと。それを見て見ぬふりはやめろと教えてくれた。
目を背け逃げようとする限り、嫉妬と恨みの鬼はわたしを追い詰めますが、わたしの大切な一部分であると認めさえすれば、それは強力なエネルギーとなります。(というか、すでに詰んでることを教えてくれてるだけなんだけどね)
真にわたしにとって『正しい』方向にエネルギーを注いでいける。
例えば、寒い夜に温かいお風呂にゆっくり浸かる。疲れていたら、早めに眠る。
かかとのガサガサをやすりで磨いたり、冷えると思ったらホッカイロを惜しみなく使う。いまは冬なので思いつくのはこういうことですが。
わたしがいままでおろそかにしてきたことです。
これまでやってこなかったことが信じられないくらい、心も体も満たされる行動でした。
「あ~、わたしはわたしを幸せにできるんだ」と実感させてくれます。
これぞ、自己効力感でしょう。(おおげさ)
他人から「そんなのくだらない」と評価されるかもしれません。それを否定はしません。でも、わたしはこの幸福感と自分の能力とを信じます。
わたしがわたしを信じられればそれでいいのです。
たったそれだけのことだったのだなと、ぬくぬくしながらかみしめる年末でした。
いやもう、あったかいお風呂サイコー!
と〆させていただきます。
では、また。
【日記】最近取り組みはじめたこと(生理関連・閲覧注意)
こんばんは!
さいきん、面白いYouTubeを見つけて、それを見ながら思ったり感じたりしたことがあります。
ひとつは、若いころに精神的不調を感じて、まあいろいろあって絶望したり、なんやかんやあって自分が不幸であることを突き付けられて、その当時は「なんでわたしが…」と呆然としましたけど、それは実は幸運なことであったなと思えるようになったこと。
もうひとつは、それでも悩みは尽きず、痛みや苦しみはやってきますが、それは結局、わたしの求める心地よい生き方へ向かうための、唯一無二の道しるべなのだなぁと思えるようになったこと。
でも、やっぱり痛みや苦しみはイヤですねぇ(・∀・)
さて、今日はわたしがごくごく最近取り組み始めたことを書いていきたいと思います。
生理に関することなので見たくない方はどうぞそっと閉じてくださいませ。
さてさて、堀江昭佳さんというかたの本の影響を受けまして、自分の生理というものを最近ようやく見直してみたのです。
で、昨日の記事では『生理痛がちょっとあるくらい』と書きましたが、じつは、もうひとつ、ちょっと気になってたことがあったんです。
生理痛に関しては、対症療法ですが、温めることでかなり良くなった、というか、痛みはなくなりました。生理痛のメカニズムからすれば、それだけでもわたしの体への負担が減ったのだろうなぁと思うので、「よっしゃ!」です。
もうひとつの気になっていたこと、それは、生理周期が短くなった、ということです。
もともとは28日周期くらいだったのですが、24日、25日、26日とか、時には29日とか、ここ一年ほど乱れていました。
でも、お得意の「まあこんなもんなんでしょ」「年かなぁ」とかであまり深く考えてなかったんです。
痛いわけでも苦しいわけでもないですしね。このまま無視していたとしてもおかしくありませんでした。
でも、「なんかイヤだなぁ」「違和感があるなぁ」という自分の内側からの声がありました。
正直言えば、その声は今考えると自分を大切にしている声ではなかったですね。
どっちかというと、自分を責める声でした。
「なんでこんなこと(生理周期が短い)になってるの?💢」
「なんでこんなめんどくさいことでわたしを煩わせるの?💢」
うっわ、わたしめちゃくちゃ自分の体に向かって怒りまくってんじゃん。
とはいえ、怒りの感情はわたしのなかでは、なにかもう一段下に隠している、無力感とかの自分が感じたくない感情をうまいこと覆い隠すためのコーティングです。
なので、実際には怒っているんじゃない。困っているんだなという前提で見つめれば、「わたしは健康でありたい」「でも、健康じゃないっぽい状態にあるみたいで、怖い」
何が怖いのかといえば、自分にはお手上げであること、解決の方法が分からないこと。このまま悪くなってしまったらどうしよう、と不安で仕方がない。
とりあえず、わたしの意識を不安からそらすため、ネットで情報を調べてみたりしました。慣れている人からしたらどうってことないでしょうけど、自分が気になることをサクッと調べるというのは、かなり自主的で良いことだと思います。
とはいえ、ネットの情報だけを頼りにしてしまうと、情報過多・玉石混交で、調べることが目的に変わってしまいそうになりますね。
自分のために自主的に行動を始める、その一歩としてはお手軽だし得るものも多いと思います。でもまあ、今回は調べてみてもなんとも言えない感じ。
病気ってほどでもない。年齢的なものかもしれない。でも、気になる。
そんなわけで、ちょうど婦人科検診を受けようと思っていたので、その時にお医者さんに質問してみたんです。
「そんなに悪そうでもないので、様子を見てみては」
という回答でした。
まあ、そうなんですよね。明らかな病気ってわけじゃないから。
妊娠を希望しているのなら、いろいろ治療が必要かもしれないけど、今のところ独身だし今すぐに妊娠希望ってわけじゃない(そもそも相手がいないし)。それだと、わたしが診てもらった婦人科では出来ることはなさそうでした。
で、モヤモヤとしたまま迎えた生理がこれまでにないくらいに短い、23日だったのです。正直すごくショックでしたね。
でも、同時にこれで肝が据わりました。
漢方薬局に相談してみよう、と。
堀江昭佳さんという方は漢方薬剤師で、本の中では漢方の処方なんかについても書かれていて、ちょっと気になってたんです。
で、ネットで近所に漢方を処方してくれる薬局はないか調べて、見つけて、予約して診てもらいました。
一時間くらいの問診で、
「あなたはエネルギーをうまく作れていないし、そのエネルギーも残念ながら漏れ出てしまっている」と言われました。
生理周期が短くなったのは、エネルギー不足だから。
舌診でも明らかでしたね。エネルギー不足の舌だそうです…。
あと、花粉症であること、鼻炎があることも、エネルギー不足のひとの特徴だそうです。
花粉症も鼻炎も、必要なエネルギー(栄養など)が漏れ出てバリア(免疫)が弱まり、悪いものを取り込みやすくなっているから起こる症状だそう。
どうしてそうなったかと言えば、胃腸が弱っているから。
エネルギーを作り、エネルギー(栄養)といらないモノ・悪いもの(老廃物とか)を分けて、エネルギーを全身に巡らせ、いらないものを排出する機能である、胃腸のちからが弱まっているから。
これは気虚体質というようです。
ただ、まだものすごく悪い状態とはいえない程度? たぶん、生理周期については漢方をちゃんと飲んでいればすぐに良くなるだろうとのことでした。
ものすごく悪くなってしまっていたら、たぶん、それはもう『病気』の域なんでしょう。
生理周期が短くなるという気になる症状が出てくれたおかげで、とりあえず対処の仕方が分かった気がします。
花粉症はけっこう長くかかっているので、「うわー、若いときからずっとエネルギー不足の状態でやってきたのかぁ…」という感じ。がっかり。
耳鼻科の薬飲んで症状がでなければそれでヨシ、でしたからね。
そんなわけで、まだそんなに経ってませんが、漢方薬を飲み始めました。
胃腸機能を補い、眠りの質を高める効能があるようです。
あ、睡眠時間が短いとご指摘を受けました。やっぱりかぁ。
薬を飲んでさえいれば良くなる、じゃなく、これまでの生活を振り返り、悪い習慣をやめて、薬の効能を向上させる。
そして、良い習慣を保ってこれからの人生を歩むと決意する。
言葉にすると簡単ですが、やるのは難しい。でも、良い機会を与えてもらえた、と思います。
まだ治ると決まったわけではないですが、自分のためになる行動をとれるようになったことだけは、うれしいです。
生理周期ももちろんですけど、花粉症とか鼻炎とかも良くなってくれたらいいなぁ。
欲が出ますね。
あ、もちろんですが、漢方をお勧めしたいわけじゃありません。この日記も、ネットの世界に漂う塵の一つです。
では、また。