晴れても曇っても雨降っても

目標を探すのが目標。そんな日々。

【自分なりの】お金との付き合い方と学び方③

こんにちは!

 

 今日はお休みだというのに、

8時に起きました…!

なんてこと、なんてことだ…。 

どうせ今日もお昼近くまで寝てしまうだろうと思っていたのですが、

寒くて目が覚めた(*‘∀‘)

 

 

さて、相も変わらず、

この記事は節約とか資産を増やすためのテクニックとは無縁ですので、

そういうものをお求めであれば、

まったくお役に立てないということにご留意いただき、

わたしの長文にお付き合いいただける方、よろしくお願いいたします。

 

 

さてさて、前までの記事を読んでおられる方がいらっしゃれば、

わたしはずいぶん両親を恨み憎み生きてきたのだな、

と思われても仕方のない書き方をしてきました。

 

ですが、わたしの両親は、たぶんちょい悪くらいで、

いわゆる命に関わるような虐待を受けていた、というわけではありません。

 

というか、まあ、正直、両親以外を知らないので、

正確に評価できているとは言えないでしょうけど。

 

それでも、その両親への復讐心がわたしを駆り立て、

何年も「ひたすら我慢」の生活をしていました。

 

いかにみじめにいじましくお金を貯めてきたかで、

無計画に暮らし無遠慮にお金を奪っていく両親を貶めることができ、

さらにわたしの優しさ、健気さが引き立つ、というシナリオを描いてたのです。

他人の不幸は蜜ですが、己の不幸は人生を彩るスパイス。

 

そして念願叶って、まとまったお金を貸してほしいと言われた時、

ようやくそのバカバカしさに気づくことができました。

 

そして、その時くらいから、正規雇用を本気で目指し始めた、気がします。

良い意味でも悪い意味でも、「頼れるものは自分だけ」を意識したからです。

 

それと、ひとつ前の記事で書いた通り、

『わたしの人生に意味なんてないじゃないか』と気づき、

心が自由になったことも関係しています。

 

表現するのが難しいのですが、わたしは自分自身をすごく縛っていたのです。

『わたしに正社員なんて無理だよ』

『わたしには収入をアップさせることなんてできないよ』

『わたしにできることなんてないよ、また失敗するよ』

ってかんじで、自分にストップをかけるんです。

 

『だからどうした? やってもないのにわからないだろ』

『失敗したっていいんだ、自分の望みが分からなくなることのほうが怖い』

『本当は、失敗なんてない。ちょっといやな気分になるだけ。また歩き出せばいい』

ストップをかける自分と話し合って、なだめて、進んでみることにしたのです。 

 

『失敗』した後のことを心配していたんです。

『失敗』しないために自分の望みを隠そうとして、

『なにもしない』ように仕向けていたのです。

『失敗』のない人生こそ『意味がある』と思っていたからです。

 

でも、『失敗』どころか『人生』に意味なんてないと断じ、

だったら、やれそうなことをやってみようという、

前向きなんだか後ろ向きなんだか

よくわからないやる気が出てきたのです。

 

同じあほなら踊らにゃ損とばかりに、踊る阿呆になることにしたんですな。

もちろん、一足飛びにではなく、徐々に、ゆっくりとした変化でしたが。

 

まあ、実際には正規雇用を目指したのは、

リーマンショックのショックのせいが大きいと思います。(オイ)

 

まあ、内面でもいろいろあって

「とにかくひたすら我慢」から、「有用なものにはお金を使ってもよい」へ

変わったのです。

 

両親にお金を渡したことで、皮肉にも「お金は役に立つ」ことを実感できました。

それまではとにかくお金をたくさん所有することが目的で、

それをどう使うのか、どう使えるのかを考えられていなかったので。

 

わたしの目的はかなり歪んでいましたが、

口座で眠るお金たちにはそんなもの関係ありません。

 

お金はお金です。

 

復讐を際立たせるための道具から、

わたしの将来を安定させるための道具へと変わりました。

 

そして、将来を安定させるために、必要と思うことをやってみて、

とりあえず今に至ります。

 

 金銭面では、収入が倍以上となり、年間貯蓄額が増え、

一生無理だと思っていた総資産1,000万円も超えました。(怪しい広告みたい)

ちなみに、払い込み済みの貯蓄型保険料も含めると、1,500万円を超えてました。

(『老後のお金』という本を読んで、しっかり保険を見直してみたら、

 20年足らずで、貯蓄型保険だけでも! 400万円以上支払ってました…。

 掛け捨てのほうは…あんまり考えたくないな…)

まあ、保険料含めるのってどうなのって思うけど。

自分の気分を上げてくれる情報だから、まあいっか。

 

でもまあ、まだそのお金をどう生かしていくかまでは考え至りません。

 

 で、

懺悔してもいいですかね?

 

 両親に対する「復讐心」としつこく書いてきましたが、

まあ、実際には単なる

反抗期

であったと思うのですよ。今更ですが。

 

幼少期には両親や周囲からの価値観をトレースし、

それをもとに『自分の価値観(仮)』を構築しました。

あるいは、超自我が精神世界で大きく育っていきます。

湧き上がる欲望を抑え込み、世の『常識』を実行させようとする部分です。

あれやっちゃダメ、これやっちゃダメ、こうあるべき、こうするべき、と言う感じ。

 

でも、 その力が絶対的に及ぶのも、「自我」が育つまでです。

いえ、超自我は生涯にわたり有効でしょうが、

それがすべてではなくなる、とでも言いましょうか。

 

例えば、『失敗』させまいと、

わたしにストップかけていたのが超自我(親・世間)の部分だとすれば、 

それに語り掛け、自分の 欲望(収入アップ、正社員)を

穏当に叶えようとしているのが自我。

自我はエス(ドイツ語で『それ』、英語の it に相当)の無尽蔵の欲望と、

世間一般の代表としての超自我の板挟みにあう、まるで中間管理職。

 

 でも、自分の向かう方向を決められるのは自我だけ。

 欲望を抑え込むだけでも、欲望のままにふるまうだけでも、

人間社会を生き抜くには不適切。

ふたつをうまくなだめすかし、あやすまでに自我を成長させなければ、

『自分』を生きることは困難でしょう。

 

『自分を生きる』とは、

自分の欲望に蓋をせず、かつ、世間一般に照らし合わせて逸脱のない範囲で、

自分の望みを叶えられる状態、と考えています。

 

『大人』と同義かな。

(まあ、西洋文化でのお話だから、

 日本文化とは相いれない部分もあるかと思います)

 

『大人』になるために、

それまでの価値観を覆すだけのエネルギーを与えてくれたのが、

親に対するすさまじい『復讐心』もとい、『反抗期』だったのかなぁと。

 

子どもに失敗をさせまいとする『親心』すら、

乗り越えていくのが『反抗期』だったんじゃないかと今では思います。

 

お金の使い方にしても、

すべての欲望を悪として排除しようとしていれば、

精神に不調をきたしてしまうだろうし。

かといって、思いつくままにお金を使っていては、

社会的に困難な状況へと向かってしまうでしょう。

 

手綱を握るのは『自分』なので、

世間一般の黄金比とか平均とかは参考程度に、

もっともっと満足度の高いお金の使い方、貯め方を探れれば、

それはとても幸福なことだろうと思います。

 

わたしも、まだその途中なので、

『挑戦しては失敗する』という日常を積み重ねて、

『自分を生きている』喜びを味わいたいと思います。

 

『失敗』を何かものすごい断崖と思っていたのでしょうね、

それは単なる分かれ道で、また新たな道につながって、

それまで見たことのない景色へ導いてくれることもあるみたいです。

 

 失敗が当たり前の日常、すっごく気分が楽です(笑)