晴れても曇っても雨降っても

目標を探すのが目標。そんな日々。

【自己満足】自信とはなにか?

こんにちは!

 

いやあ、更新が滞ってました。

最近、自分の内部でどうにも停滞感があって、

立ち止まって同じところをグルグルしているのも、

そろそろ飽きたな~。

 

というタイミングで、ツイッターにて心理系のつぶやきを見つけて、

「これだ!」

と延々眺めておりました。

 

まあ、今の時代って、欲しいと思う情報って即座に検索できるから

すごい。

 

というか、わたしが好み、求める心理系のものって、

何年も変わらないんだけど、わたしが忘れ果てたころに欲しくなれば

すぐに与えられるとか、この世はやっぱりすごいな。

ネット環境がなければ、たぶん、古本屋に駆け込んでたな。

日本て素晴らしいな。

 

と、ちょっとハイテンションです。

(これ、のちのち後悔する奴か…?)

 

 

これまでもメンタルの話が多いですが、

これも、またメンタルのお話です。

すいません、なんか、こういうことばっかり書きたくなる。

まあ、こんなこと考えてるやつがいるんだ~くらいの気持ちで

生ぬるく読んでもらえると嬉しいです。

 

わたしの「ねえねえきいて!」にお付き合いいただける方、

もしいらっしゃれば、よろしくお願いいたします。

 ※長文です。

 

最近のわたしは、けっこう幸せだったと思います。

いきなりなんだ、と思われるでしょうが。

さほど大きな不満も、イライラもない。

 

これまでの記事で書きなぐりましたが、まあ、人生いろいろあって、

人を憎み妬みそねみうらやみ、ギリギリ歯を食いしばって生きてきました。

一言で言うなら、

 

 

ストレスはんぱねぇ

 

な、人生だったわけです。

 

ストレスゼロなんてありえませんが、まあ、最近は穏やかだった。

自分比だから、どの程度かわからないけど。

たまにムカつくことがあっても、心の中で痛罵すれば治まるし。

 

 だけどなんかな~と、もやもやしてました。

仕事はまあ割と順調。人間関係も、そこそこっていうか、かなり良い。

なんだろう、「ここにわたしいてもいいんだ」っていう安心感のある職場。

妬み嫉みのかたまりであるわたしは、

だいたいすねてて、まえの仕事ではずーっと

「ここにいていいのかな? 迷惑じゃない?」という

謎の疎外感と不安が絶えなかった。

 

というか、実際は「ここに居たくない!」というのが本音だったんだろうけど。

 

とりあえず、わたしの周辺では特にトラブルもなく、

「幸せなんだろうな~」と自分を納得させようとしたけど…。

 

うん、なんか違う。

 

霞がかかっているというか、大事なことを見落としてる焦燥というか。

 

気分を上げようと大好きなお肉♡食べたり、

大好きな曲を飽きるまで聞いたり、

大好きな小説をむさぼるように読み耽ったり。

 

およそ思いつく楽しさを追求してみたけど、

コレジャナイ感

 

む~ん…

 

 

まあ、わかってました。

意識的に気分上げようとしてる時点で、

求めてるのはこういうことじゃないよな~って。

 

でも、うすうすわかっているけど、あれってとてもめんどくさい。

そしてとても傷つくやつ。

 

自分の隠してる欲求を見つけ出す作業。

 

探し方は結構簡単で、自分の心がギュッと鷲掴みされるような、

ゾッとするような、そんな感覚を頼りに心の中を掘っていく感じです。 

 

 「うわっ、ヤダ!」

 

と、顔をそむけたくなるものをガン見する。

悪趣味かもしれないけど、これは、けっこう病みつきになる。

始めるまではイヤなんだけど、見つめ始めたら、わりと平気。

 

そして、驚くほど安心? 落ち着いた気分になれる。

 

今回のお題は職場の女性の結婚でした。

 

それを知って、胸が痛くなった。傷ついた。

でも、別にわたしの好きな人と結婚する、とかではない。

 

それだったらまだ納得できる。失恋は辛いもの。

 

でも、そうじゃない。だから見て見ぬふりをして、

「つらくない、平気」

と、振り返ると不自然な宥め方をしていた。

 

あ~、つらくて平気じゃなかったんだよな~。

でも、なんで辛くて平気じゃなくなってしまうんだろう?

 

まあ、ぶっちゃけると、

わたしが手に入れていないアイテム(結婚)を

手に入れた女が憎い!

 

ってだけ。

 

これはカタチだけを求めていて、

資格を取るみたいな感覚で、結婚を捉えているから起こる苦しみ。

 

これ持ってたら他人に優越できる、

と、わたしが思い込んでいるだけのこと。

つまり、それを持っていないわたしは劣っているという、いつも通りの幻想。

 

そして、もしも念願叶って結婚出来たら、ただそれだけで

「結婚していない人 」を見下すつもりということ。

口で何と言おうが、わたしの心はそういう反応をする、ということです。

あ~嫌な現実。

 

心がギュッと締め付けられるのは、

「見下された!」

という傷つきのせいでしょう。

 

でも、もっと嫌な事実が。

そのひと(職場の女性)がわたしを見下しているわけじゃなくて、

わたしがわたしを見下して、傷つけているだけなんです。

 

 わたしには他人の心なんて読めない。

わたしにわかるのは、自分のことだけ。

 

だから、傷つくっていうのは、究極、

自分で自分を傷つけているってことなんだよねぇ。 

 

『世間の人が当たり前にできることができない

 世間の人が当たり前に手に入れているものも手にできない無能』 

 

 という刷り込み。

 

大学進学を断念したときも、周りのことをうらやみねたんでいたな。

その人たちの人生すべてを知っているわけでもないのに、

ただ大学に進学する、という一点だけをみて、憎んでた。

 

就職氷河期と不景気のおかげで、

手に入れられなかった正規雇用と安定したお給料については

さほど恨みを抱くことはなったけど。

それでも、やっぱり手に入れたくて転職活動をしたのだから、

わたしの行動原理に深くかかわっているのは間違いない。

 

転職して、

正規雇用と安定したお給料をもらえるようになって、

かつての職場を見下しているか? と言われると、

う~ん…

 

いや、就職とかって、運ゲーじゃない? 

 

もちろん、雇われるまでの過程もだけど、

大事なのって、雇われた後だし。

就業条件はわかるけど、入った後はどうなるかわからないし、

倒産だってありうるし、人間関係でつまづくかもしれないし。

 

正規雇用、非正規雇用という単語だけでは計り知れないモノがある。 

それは、たぶん、実際に経験したからそう思えるんだろう、と思います。

経験していなかったら、ただの単語でしか考えられないのは仕方のないこと。

大学もそう。全日制ではないけど、一応大学卒業して思うのは、

思っていたより普通のことだった。

 

勉強して、試験受けて。いろんな人がいるんだなって。 

 

ただひとつ言えるのは、

「大卒で正規雇用だと高卒よりもお給料が良い!」 

 

高卒大卒院卒いますが、仕事ではほとんど仕訳けられることもなく、

同じような業務なんですけどね、基本給から違う。

非正規だと、わたしが雇ってもらってたところしかわかりませんが、

高卒以上だと、区別ないんです。みんな一律。

(非正規でも、区別あるとこもあるかもですが)

 

いやもう、ほんと、

「仕事内容変わらないのに、大卒と言うだけで給料が違う」

と教えてくれた先輩、ありがとう!

うちの職場もそうだったよ!

 

閑話休題

ええと、そう、つまり結婚したことがないから、空想で自分を傷つけてるんです。

『みんなが当たり前にできることなのに!』って。

いやいや、『みんな』なんていないよね。

 『当たり前』なことなんてこの世にないよね。

 

ただ、わたしが、結婚にあこがれて、

結婚したいなって思っているだけだよね。 

 

 その気持ちをシンプルに感じることができないから、

まだるっこしいことになっていたのでした。

 

 「婚活市場では高齢だから」「条件が悪いから」

 「できもしないことを求めるなんて愚か」

「失敗してみじめになりたくない」

 

「そんなことができる自信がないから…」

 

 

ここまできて、やっとタイトル回収。

 

でた! 自信!

 

ニートから働き始める時も、

通信制大学はじめようかどうか悩んだ時も、

転職したいけどどうすればいいんだろうと不安になった時も!

 

わたしには自信がないからできないんだと言える、

万能の言い訳アイテム!

 

自信をつけたくて、資格試験とか受けました。大学も卒業した。

転職もした、貯金もした。

確かに、自分の努力が報われる喜びを感じたけど、

 「よし! これで自信が付いたぜ! なんでも来い!」

 とはならないんだよね。

 

やっぱり、つねに、新しいことを始めるのは怖い。

失敗が怖い。みじめな思いをしたくない。

 

自信がつけばできる気がする。

誰かに優越している自分ならば、できるようになれる気がする。

 

という、妄想幻想。

 

実際には、その行動をするかしないか。

ただそれだけ。

 

その結果が失敗だったとしても、そこから別の道がつながっていくだけ。

軌道修正をするだけ。

 

わたしにとって自信とは、

やってみたいことがあるのに

怖くて踏み込めないときに使う言い訳。

 

そして、

失敗して、みじめな思いをして、崩れ落ちてもいいよ。

どんなに落ち込んでもへこんでも、

どうせ、また歩き出せるんだから。

 

という、

これまで生きてきたしぶとさ図太さに対する、

自分自身への信頼です。

 

【お金について】天引き最強

こんばんは!

 

今日は早く起きたからか、怪談朗読聞きながら昼寝しました。

しあわせ。

しかし、目を覚ました時けっこう暗くなっていて、

耳元では怪談。

 

ハッとしました。

 

「ごはん…ご飯炊かなきゃ!」

 

無事に炊き立てご飯と塩サバと味噌汁食べました。幸福。

食欲は恐怖に勝る。

 

さて、本日2つ目のブログになります。

まあ、書けるときにしか書けないので、こういうのもありかと。

短めです。

 

タイトルですが、天引き最強だと思うんですよね。

 

わたしは転職してから職場の財形制度を利用しています。

まえは非正規だったからか、そういうものを利用することはできなくて、

なんか羨ましかった。

で、5年目ですが、月に1万円、ボーナス時も積み立てて、60万円をこえました!

 

ちりつもっていうんでしょうが、

知らないうちに(とはいえ、自分で申し込むんだけど)

まとまったお金が貯まっているのはうれしいです。

 

社会保険料も、税金も、会社勤めしている方なら、

給与から強制的に差っ引かれて、残りを支給されますよね。

 

納税は国民の義務だし、社会保険料を納めないと、

のちのち自分が困ったことになります。

 

うちの両親は年金暮らしなのですが、たまに、

 

「年金少ないのに、こんなに取られてる!」

 

と、ぶつくさ言います。

 

まあ、気持ちはわからないでもないのだけど…( ˘ω˘ )

 

 

 

 

 

お前ら天引きされなかったら、

支払えないだろうが!

 

安心してください、言いがかりじゃありません。前科があるんですよ。

うちの母が65歳になったとき、

介護保険料を支払うようにお役所から納付書が届いたようですが…。

 

支払えないからと、放置。 

 

わたしがお支払いしました。

あとは順調に天引きされているみたいなんですけど、

なんかあったら怖いので、

(尻ぬぐいはわたしのお仕事だからね!)

口座払いの手続きをしてあります。ええ、親のことは信じていません。

名義人が別人でも構わないみたいで、わたしのメインバンクを登録。

 

父が現役時代にも天引きについてぶつくさ言ってた気がしますが、

税金も社会保険料も支払えるようにお金を残すなんて高度な金銭管理、

できるわけがない。

 

あったら全部使うだろ。

そして、支払えずになにか困ったことになったら、

 

 

天引きにしないやつが悪い!

 

くらいのことは言いそうです。いや、まじでね。

 

そういうわけで、わたしは天引き最強! 天引き支持派です。

 結局支払わなければならないんだし、

だったら、知らん間に引かれちゃってるほうがいい気がする。

 

両親が今現在無事に年金もらえているのは、

強制的な保険料天引きのおかげです。

 

天引きしてくれて、ありがとうございます! 

 

特にオチはない。

【自分なりの】お金との付き合い方と学び方③

こんにちは!

 

 今日はお休みだというのに、

8時に起きました…!

なんてこと、なんてことだ…。 

どうせ今日もお昼近くまで寝てしまうだろうと思っていたのですが、

寒くて目が覚めた(*‘∀‘)

 

 

さて、相も変わらず、

この記事は節約とか資産を増やすためのテクニックとは無縁ですので、

そういうものをお求めであれば、

まったくお役に立てないということにご留意いただき、

わたしの長文にお付き合いいただける方、よろしくお願いいたします。

 

 

さてさて、前までの記事を読んでおられる方がいらっしゃれば、

わたしはずいぶん両親を恨み憎み生きてきたのだな、

と思われても仕方のない書き方をしてきました。

 

ですが、わたしの両親は、たぶんちょい悪くらいで、

いわゆる命に関わるような虐待を受けていた、というわけではありません。

 

というか、まあ、正直、両親以外を知らないので、

正確に評価できているとは言えないでしょうけど。

 

それでも、その両親への復讐心がわたしを駆り立て、

何年も「ひたすら我慢」の生活をしていました。

 

いかにみじめにいじましくお金を貯めてきたかで、

無計画に暮らし無遠慮にお金を奪っていく両親を貶めることができ、

さらにわたしの優しさ、健気さが引き立つ、というシナリオを描いてたのです。

他人の不幸は蜜ですが、己の不幸は人生を彩るスパイス。

 

そして念願叶って、まとまったお金を貸してほしいと言われた時、

ようやくそのバカバカしさに気づくことができました。

 

そして、その時くらいから、正規雇用を本気で目指し始めた、気がします。

良い意味でも悪い意味でも、「頼れるものは自分だけ」を意識したからです。

 

それと、ひとつ前の記事で書いた通り、

『わたしの人生に意味なんてないじゃないか』と気づき、

心が自由になったことも関係しています。

 

表現するのが難しいのですが、わたしは自分自身をすごく縛っていたのです。

『わたしに正社員なんて無理だよ』

『わたしには収入をアップさせることなんてできないよ』

『わたしにできることなんてないよ、また失敗するよ』

ってかんじで、自分にストップをかけるんです。

 

『だからどうした? やってもないのにわからないだろ』

『失敗したっていいんだ、自分の望みが分からなくなることのほうが怖い』

『本当は、失敗なんてない。ちょっといやな気分になるだけ。また歩き出せばいい』

ストップをかける自分と話し合って、なだめて、進んでみることにしたのです。 

 

『失敗』した後のことを心配していたんです。

『失敗』しないために自分の望みを隠そうとして、

『なにもしない』ように仕向けていたのです。

『失敗』のない人生こそ『意味がある』と思っていたからです。

 

でも、『失敗』どころか『人生』に意味なんてないと断じ、

だったら、やれそうなことをやってみようという、

前向きなんだか後ろ向きなんだか

よくわからないやる気が出てきたのです。

 

同じあほなら踊らにゃ損とばかりに、踊る阿呆になることにしたんですな。

もちろん、一足飛びにではなく、徐々に、ゆっくりとした変化でしたが。

 

まあ、実際には正規雇用を目指したのは、

リーマンショックのショックのせいが大きいと思います。(オイ)

 

まあ、内面でもいろいろあって

「とにかくひたすら我慢」から、「有用なものにはお金を使ってもよい」へ

変わったのです。

 

両親にお金を渡したことで、皮肉にも「お金は役に立つ」ことを実感できました。

それまではとにかくお金をたくさん所有することが目的で、

それをどう使うのか、どう使えるのかを考えられていなかったので。

 

わたしの目的はかなり歪んでいましたが、

口座で眠るお金たちにはそんなもの関係ありません。

 

お金はお金です。

 

復讐を際立たせるための道具から、

わたしの将来を安定させるための道具へと変わりました。

 

そして、将来を安定させるために、必要と思うことをやってみて、

とりあえず今に至ります。

 

 金銭面では、収入が倍以上となり、年間貯蓄額が増え、

一生無理だと思っていた総資産1,000万円も超えました。(怪しい広告みたい)

ちなみに、払い込み済みの貯蓄型保険料も含めると、1,500万円を超えてました。

(『老後のお金』という本を読んで、しっかり保険を見直してみたら、

 20年足らずで、貯蓄型保険だけでも! 400万円以上支払ってました…。

 掛け捨てのほうは…あんまり考えたくないな…)

まあ、保険料含めるのってどうなのって思うけど。

自分の気分を上げてくれる情報だから、まあいっか。

 

でもまあ、まだそのお金をどう生かしていくかまでは考え至りません。

 

 で、

懺悔してもいいですかね?

 

 両親に対する「復讐心」としつこく書いてきましたが、

まあ、実際には単なる

反抗期

であったと思うのですよ。今更ですが。

 

幼少期には両親や周囲からの価値観をトレースし、

それをもとに『自分の価値観(仮)』を構築しました。

あるいは、超自我が精神世界で大きく育っていきます。

湧き上がる欲望を抑え込み、世の『常識』を実行させようとする部分です。

あれやっちゃダメ、これやっちゃダメ、こうあるべき、こうするべき、と言う感じ。

 

でも、 その力が絶対的に及ぶのも、「自我」が育つまでです。

いえ、超自我は生涯にわたり有効でしょうが、

それがすべてではなくなる、とでも言いましょうか。

 

例えば、『失敗』させまいと、

わたしにストップかけていたのが超自我(親・世間)の部分だとすれば、 

それに語り掛け、自分の 欲望(収入アップ、正社員)を

穏当に叶えようとしているのが自我。

自我はエス(ドイツ語で『それ』、英語の it に相当)の無尽蔵の欲望と、

世間一般の代表としての超自我の板挟みにあう、まるで中間管理職。

 

 でも、自分の向かう方向を決められるのは自我だけ。

 欲望を抑え込むだけでも、欲望のままにふるまうだけでも、

人間社会を生き抜くには不適切。

ふたつをうまくなだめすかし、あやすまでに自我を成長させなければ、

『自分』を生きることは困難でしょう。

 

『自分を生きる』とは、

自分の欲望に蓋をせず、かつ、世間一般に照らし合わせて逸脱のない範囲で、

自分の望みを叶えられる状態、と考えています。

 

『大人』と同義かな。

(まあ、西洋文化でのお話だから、

 日本文化とは相いれない部分もあるかと思います)

 

『大人』になるために、

それまでの価値観を覆すだけのエネルギーを与えてくれたのが、

親に対するすさまじい『復讐心』もとい、『反抗期』だったのかなぁと。

 

子どもに失敗をさせまいとする『親心』すら、

乗り越えていくのが『反抗期』だったんじゃないかと今では思います。

 

お金の使い方にしても、

すべての欲望を悪として排除しようとしていれば、

精神に不調をきたしてしまうだろうし。

かといって、思いつくままにお金を使っていては、

社会的に困難な状況へと向かってしまうでしょう。

 

手綱を握るのは『自分』なので、

世間一般の黄金比とか平均とかは参考程度に、

もっともっと満足度の高いお金の使い方、貯め方を探れれば、

それはとても幸福なことだろうと思います。

 

わたしも、まだその途中なので、

『挑戦しては失敗する』という日常を積み重ねて、

『自分を生きている』喜びを味わいたいと思います。

 

『失敗』を何かものすごい断崖と思っていたのでしょうね、

それは単なる分かれ道で、また新たな道につながって、

それまで見たことのない景色へ導いてくれることもあるみたいです。

 

 失敗が当たり前の日常、すっごく気分が楽です(笑)

 

【自分なりの】失敗・挫折とは何か?

こんばんは!

 

三連休、天気はいまいちですが、ひきこもり生活が苦ではないわたしにとっては、

楽しいお休みです。

仕事は相変わらず忙しいです…。

お金的にはありがたいんですけどねぇ。

ほどほどが良いな。

 

さて、タイトルをご覧になっていただければ、うっすらわかるかと思いますが。

メンタルなお話になります。

そして、ここに述べることは完全にわたしの勝手な解釈ですので、

こういうこと考えてるやつがいるのか~くらいのスタンスで、

読んでいただけると幸いです。

お付き合いいただける方、どうぞよろしくお願いいたします。

 

わたしは失敗・挫折の多い人生を送っていると思います。

学歴・職歴といった外面的な部分でも、

なかなか他人とは比べ難い精神的な部分でも。

 

わたしはとても若いとき、

精神的な不調を抱え、精神科に通っていました。

その時は、そういう精神科に通っている、という事実があるだけで、

「わたしの人生おしまいだ」くらいに思いつめてました。(笑)

 

 今は、そこまで思いつめないでしょうけど、 その当時は本当につらかったんです。

かかっていたお医者さんからは、

「あなたの症状はとても軽いから、気にしないのが一番なんだよ」 

と言われていて、処方されていた精神安定剤も一番軽いものだから、

必要ないと思えば、すぐにやめて構わない、と言われてました。

 

ほとんど飲む必要がない薬のようで、実際、忘れてしまうこともあって、

徐々に必要がなくなり、やめてしまいました。

 

今は、薬なしでも暮らせています。

 

お医者さんからすれば、わたしの症状は軽微なもので、

実際、たいした症状ではなかったんだろうけど。

その当時のわたしは辛くてつらくて、

自分はこの世で一番不幸でかわいそうだと思ってました。(恥)

 

わたしはこの精神的な挫折を乗り越えたくて、心理を学びました。

そして、知ったのは、

挫折を認めなければ挫折を乗り越えることはできないという、シンプルなものです。

さらに言えば、『挫折』を作り出したのは自分自身、

その『挫折』した自分を拒絶しているのも自分自身。

 

『失敗・挫折』という幻想を作ったのは自分自身である、と言うこと。

それが単なる幻想であり、その幻想にしがみついていたというだけのこと。

 

これはある意味危険な考え方かもしれないですが、

つまるところ、自分が喉から手が出るほど欲しがっていた『成功・栄光』ですら、

取るに足らない幻想なのだと思い知りました。

 

そこまで考え至って、本当に心理的な迷子になってしまいました。

 

「わたしの生きる意味って何? 何のために生きているの?」

 

ある意味において、幻想の中で生きていたほうが気分が楽だったのでは?

と今でも思います。 

 

外界が与えてくれる価値をそのまま自分のものとして、

その中で悩んだり苦しんだり喜んだり。

 

わたしはそれまではその中で必死に努力をして、そのことに満足していたのです。

ひとと比べて一喜一憂するというのは、

実はすごく楽しく、人を奮起させるものではないかとすら思います。

 

簡単に目標が見つけられるし、努力はわりと実るものです。

 

ですが、その喜びも苦しみも単なるひとり芝居だった。

この空っぽな自分に何があるんだろう?

わたしは何がしたいんだろう?

 

実は、この問いに、いまだ答えを出せていません。

いえ、答えというか、何というか。

気づきたくなかったのは、「わたしが生きることに意味はない」と言うことでしょう。

 

わたしは心のどこかで、

「わたしが生きることには意味がある」と思いたがっているのです。

思いたがっているということは、実際にはそう思っていないということ。

 

「わたしはなにをしたいのか?」とは、実は、「したいことなどない」

あるいは、「しなければならないことなどない」

ということではないか?

 

本当は、しなければならないことなんて決まっていないけど、

それではあんまりだから、とりあえずの目標を繰り出して、生きている。

 

貯金も、仕事も、趣味も、たぶん、生きるためのヒマつぶし。

意味がなくても、わたしは生きていたいから。生きることが喜びだから。

生きて味わう喜び怒り哀しみ楽しみだけが、「わたし」をかたどってくれるから。

 

さて、わたしにとっての『失敗・挫折』とはなにか?

その答えは、単なる思い込み、幻想でした。

 

『失敗・挫折』と捉えると言うことは、その当時の自分の価値観のなかで

けっこう大切なものだったのでしょう。

 

そしてひょっとすると、若かったからこその感覚かもしれません。

40年近く生きた今だからこそ、

 

「死ぬこと以外は失敗・挫折じゃない」

 

という境地に達したのかもしれません。

 

だって、わりと人生ってどうにかなるもんだわ~って思うもの。

 

自分がどうにかできなくても、誰かが助けてくれたりね。

そう、「自分で何もかもできなければ!」という思い込みが

『失敗・挫折』の中核にあった気がします。

 

無慈悲なことにわたしの人生には意味なんてないようですが、

慈悲深いことに世の中は調和に満ちていて、どうにかなっているようです。

 

まあ、人生の意味を探すのではなく、

「そのときにやってみたいこと」を積み重ねてみようと思ってます。

 

 それで失敗・挫折したら?

 

 

いや~な気分を存分に味わってから、

次へ行きます。人生は続くから。

【2019年5月~8月】収入と支出

こんばんは!

 

 一週間がはじまってしまいましたね~。

頭がぼんやりしてて、心もとない感じ。

こういう時は、気分を上げてくれるお気に入りの曲を

聴いて鼻歌うたうのが良いです。

わたしは疾走感のある意味不明な感じの曲が好きです(´∀`) 

 

さて、ひと月ずつの収支報告が普通なのでしょうが、

わたしの生活は変わり映えがなく、ほとんど変動がないので、

まとめて4か月分報告します。

 

2019年5月~8月

収入 合計 147万円

内訳

 給与 98万円 ひと月平均 24.5万円

 賞与 46万円

 還付  2万円

ポイントサイト 1万円

 

支出 合計 57万円

 最低生活費 (家賃・水道光熱費・通信費・そのほか日常生活に最低限必要なもの)

 41万円 ひと月平均 10.25万円

 特別費 (医療費・被服費・美容費・町内会費・脱毛・ホワイトニングなどなど) 

 16万円 ひと月平均  4万円

 

収支

147万円-57万円=90万円

貯蓄率 61.2%

 

(給与のみのひと月平均の貯金額は10.25万円となりますが、

 老後資金のための積立て3万円を含みます)

 

 

ひと月の給与が高めで、それは残業・休出のおかげです。

疲れました。シンプルに疲れました。

でも、まだちょっと続く。うん、ちょっとって、いつまで続くんだよって感じ。

自分をごまかすのもそろそろ限界でしょうか…。ふふふ…。

 

支出のほうは、ひと月平均支出を15万円以内におさえられたので、

とりあえずは目標達成です。えらーい!

すかさず自分をほめていくスタイルです。

 

まあ、引っ越し関連ぜんぜん進んでないんだけどね!

だって疲れてるからね! 仕方ないね。

  

あ~引っ越しできる気がしません…。

 

つぶやいてます。

http://twitter.com/konohanasakura4

 

【自分なりの】お金との付き合い方と学び方②

こんばんは!

 

涼しくなってきて、なんか、やっと元気が出てきました。

暑いうちはなにもする気にならず、

というか、暑さを言い訳にひたすらだらだらしてました。

それはそれで楽しい。なんにもならない時間を過ごし、自己嫌悪までが様式美。

 

さて、書いてて(やっと)気づいたことがあります。

この記事は節約とか資産を増やすためのテクニックとは無縁で、

そういうものをお求めであれば、

まったくお役に立てないということに。

 

まあ、そういう有益なものは巷にあふれているし、

わたしが己で考え出した斬新な節約術などは今のところないので、

単なる長文にお付き合いいただける方、よろしくお願いいたします<m(__)m>

 

 

さて、我が家は、いわゆる「あればあるだけ使っちゃう家庭」

でした。

 

しかも、「無意識のうちに」です。

意識していないから、「お金、なくなっちゃった!」で、

それ以上考えられないのです。

というか、なににいくら使っているのか、知らないし、知ろうともしてなかったな。

たぶん、いまだにそういうものを記録するとかしてないだろうな…。

 

そういう家庭に育ち、わたしもお金の知識は皆無でした。

お給料も安かった。そのため、「とにかくひたすら我慢する」という方法で、

数百万円を貯めて、いろいろありまして、実家を出てひとり暮らしを始めました。

 

わたしは実家を出てからも「とにかくひたすら我慢する」を続けてました。

お金が貯まるのはほんとうにうれしかったし、自信にもつながった。

でも、喜びや楽しみ、そういうものはあまりなかったかな。

 お祭りの出店でたこ焼きを買うことすら悪だった。(笑)

(だって、スーパーでなら300円で買えるからさぁ…)

 

後悔しているのか? といえば、う~ん、悩むけれど、後悔ではない。

そういう喜びを押し殺した生活をしたからこそ、

なにが自分にとって本当にやりたいこと、してみたいことなのか、

そのことに気づける指針?を持てたかな~と思います。

若いうちに経験できてよかった。

 

思うのは、子ども時代には、

恥ずかしながら、欲しいものはほとんど買い与えられて、

(なにしろ、手持ちの現金とかクレジットカードとかを駆使して、

 後先考えずにお買い物してくれるからなぁ…)

いまはほんとに「頼むからお金を貯めてください!」と言いたいが。

 

「ほしいな~」と何気なく思ったものって、

実際はそんなに欲しくもなかったりするのに気づくことができました。

 

何かが欲しくてほしくて仕方ない、という気持ちにそんなに襲われないのは、

(たまにはあります。主に本とかCDとか楽器関係とか)

あの両親に育てられたからなんだろうなと思うとなんかムカつくが…。

 

お金の劣等生としか言えない両親と同じで、

たぶんわたしもお金の劣等生なんでしょうね…。

お金とのお付き合いの仕方、実はまだよくわかってない。

認めたくないけど!

 

まあ、ひとり暮らしを始めてからはとにかくひたすら我慢して、

貯金額を増やすことのみを喜びとしていたのですが、 

 転機が訪れます。

 

実家でお金が必要になり、当然、貯金なんてものはなく、

おずおずとわたしに連絡してきました。

 

けっこうな大金でしたが、わたしの貯金で余裕で賄える額(ドヤ顔)

すぐには返答せず、アパートで考えました。

 

まず感じたのは怒り・憎しみでしたね。

 

自業自得! ざまぁみろ!

って感じ。

すごく罵った。ノートの中でだけど。

 

わたしのお金をアテにして、わたしの大切なお金を奪おうとしている!

 

などなど…。

 

そして、当たり前のように頭の中に響くのが、

 

お金が無くなってしまう!

という恐怖。

 

さすがに一度でそれだけの大金を使ったことはなかったので、

かなり動揺してました。

 

そして、気づきたくなかったことにも気づきました。

「ざまぁ」と思ったとき。

自分が「ひたすら我慢」していたのは、この時のためだったと。

 

そう、わたしはこうなることを渇望してたのです。

お金を失う恐怖を上回る快感。

両親がお金に困ること。わたしに頼らざるを得なくなること。

 

両親がわたしよりも無能であり、わたしにちからがあることを実感するために。

わたしが必要とされていることを証明するために。

 

わたしは復讐のためにお金を欲したのです。

使い道なんて、思い浮かびもしない。老後とか、将来とかおためごかししてたけど。

(あ、今は考えてますよ、たぶん)

復讐心・怒りはすさまじいエネルギーを与えてくれます。

 

何年にもわたり、わたしが自分自身に対して小さな喜びも認めずとも、

低賃金で、ひとり暮らしで、それでも健気に貯めてきたお金を、

両親に奪われる『かわいそうな自分』の境遇に酔い痴れる、

この人生最高のときまで耐えられたんですから。

 

どんだけ両親に絡みたいんだっての。

 

それでどうなったかと言うと、

わたしは両親にお金を渡し、その後は、あんまりキツキツな生活をしなくなりました。

 

だって、復讐を続ける気がしなかったから。

「お金、自分のために使ってもいいな」と、思えるようになったからです。 

 

そう、特別なことは必要なく、

自分が変わりたいと思えば、その瞬間から変われると思います。

良きにつけ悪しきにつけ。

 

自分の目的が復讐だったことを知ったときに、

無意味だ、むなしい、こんなことがしたかったのかよ、と、

自分自身に絶望しました。

 

絶望した瞬間に、わたしは自分の復讐心を認めたのです。

 

健気な子どもじゃない。かわいそうな人間なんかじゃなかった。

幸せになりたければ、いつでも自分で手を伸ばすことができた。

でも、それをしなかった。

怖くてできなかっただけなのに、他人のせいしたかった。

他人からの憐み、関心が欲しかった。

 

それを知れれば十分で、

 

 

うん、めちゃくちゃバカバカしいな。

 

 

やってることの馬鹿ばかしさに気づけば、もう続けられませんからね。

 

とはいえ、幸せになるために何かすることが怖いとか、失敗したらどうしようとか、

そういうことを思ってはいけないのではなく、

そういう風に怖がって、失敗を恐れていることも、

大切な自分の一部である、と認めていくことが大切なんだと思います。

もちろん、あのすさまじい復讐心もわたしの大切な一部です。

 

 臥薪嘗胆? 目的のためなら苦しみすら耐えて喜びに変える、というのは、

とんでもない武器なのでは?(笑)

 まー、明らかに自分が大ダメージ喰らうのが前提の攻撃なので、

二度と復讐なんてしたくないけど。

 

あ、ちなみに出店でお買い物ができるようになりましたよ!

小さな喜び。

 

でも…、

 

 

やっぱりたこ焼きはスーパーで買う。

 

(わたしは単なるケチだったようです)

 

 

つぶやいてます。

http://twitter.com/konohanasakura4

【自分なりの】お金との付き合い方と学び方①

こんばんは!

 

ようやっとツイッターとの連携ができました!

いやあ、ちゃんと調べれば親切に教えてくれるんだね。

即行動に移さない、自分のぐずぐずさが憎い。

 

さて、お盆はフリーホラーゲームに夢中になり、

新たに素敵な怪談朗読されている方を発見し、堪能し、

お風呂に入って髪を洗っているときに怖い場面を思い出しては、

びくびくするという、自業自得の夏が終わりかけております。

 

40手前なのに、やってることは、子どものころから変わらないなって感じ。

三つ子の魂百までとはうまく言ったものです。

 

さてさて、強引にタイトルに戻りますが、

お金との付き合い方を学ぶ一番最初の場所といえば、

わたしの場合は『家庭』でした。

 

サラリーマンの父がお金を稼ぎ、

専業主婦の母が家計をあずかっている?感じでした。

 

?がついてしまうのは、

母は計画的にお金を使うとか、貯金するとか

そういうことはしていなかったからです。

 

まあ、母だけが悪いわけではなく、

父も、自分の稼ぎだからと、好きなように使ってました。

 

それでも、子どもたちが大きくなって、

いわゆる『学費』がかかってくるまでは、

なんとかなっていたようです。

(うちの両親はクレジットカード・ローンも収入と捉えていたふしがあるので、

 なんとかなっていたというのも疑問だが…)

 

ま、そんな家計だったのであれよあれよと困窮したのです。

はたから見れば当然の帰結なのですが、当事者には不思議でならなかったようでした。

 

そんな家庭で育ったわたしの胸に深く刻まれた教訓?が、

 

 

 

お金って、消えるもの

 

 

は? と思った方は正常です(笑)

だって、わたし子どものころから繰り返し聞かされていたんですよ。

 

「お金は消える」「お金はなくなる」って。

 

それってどんなホラー? 

 

ま、当然ですが、ある日突然消え失せるとかではなく、

たんに、いろいろ必要で使っているうちに手元には残らない、という意味です。

 

ですが、幼かったわたしに対しての説明をかなり省略しているため、

とても簡潔に

 

「お金ってなくなるものなのよ (∀`*ゞ)テヘッ」

 

と教えてくれてました。(端折りすぎ)

 

わたしは「でもまあなんとかなるよ」と言う両親とは違い、

悲観的ともいえる性格でしたので、

「お金って消えちゃうのか…」と不安で仕方なかったです。

 

そのため、奨学金

両親としては「借りられるんならラッキー!」(のちに続く返済のことは考慮に無い)

わたしは「お金稼いでも消えちゃうんだし、借金なんかしたら人生終わりだ…」

 

という、とらえかたの違い。どっちも極端。

 

今なら、投資(大学進学)にかかる費用と、

リターン(のちの稼ぎ)を考慮に入れる視点も持てそうですが…

 

まあ、ぶっちゃけ高校生の時点で、

これからの人生をどう生きていくかなんて、考えたこともなかったですよ。

 

どんな技能が世間から必要とされているか、

正直いまだにちゃんとわかってはいないなぁ。

たとえ必要とされている技能が分かったとしても、

その技能を習得できるかもわからないし。

 

わたしの場合は、就職先いかんで人生変わるという、

ギャンブル要素強めの生き方なので。

 

うん、たぶん、そのときの気分と雰囲気で決めそう。

確固たる根拠なき人生を生きております。

 

そんな「お金は消える・なくなる」という思い込みをもったまま働き始め、

ある日、給与受取口座の通帳をみていて気づきました。

 

 

 

あれ、お金消えてなくね?

 

 

口座残高100万円を超えたあたりでしょうか。やっと気づきました。

ええ、使わなければ、消えない。

そもそも、消えるという表現がおかしいことに。

 

しかし、心の奥深くまで刻まれた思い込みは強く、

実際にお金に困窮した期間もあったことから、

 

「お金が消える」=恐怖!

「お金を使う」=「お金が消える」=恐怖!

「お金を使う」=恐怖!

へと進化を遂げました。あらあら悪化してますね。

 

そういうわけで、どんなにお金を貯めても自分の好きに使うことに恐怖があり、

最近まで脱毛とかホワイトニングとか、やりたいな~と思っていても、

怖くて実行に移せなかったのです。

 

ただ、資格や転職のために使うことには、ほとんど糸目をつけなかったのは、

『親や世間が許してくれそうな出費』だったからかな。

 

あ、誤解を招く表現になってしまいましたが、

これは実際に親や世間が許す許さないではなく、

あくまでも『わたしの心の内の親や世間が』許すか許さないか、なのです。

いわゆるスーパーエゴ。超自我と呼ばれる部分だろうと解釈しています。

 

わたしはフロイト先生の心の構造モデルが好きで、

いまでは古いのかもしれないけど、

すごく理解しやすいので、自分の心理を考えるときに使っています。

 

そう、心理を学んで思ったことは、

これまで何度も書いたことを覆すようで心苦しいですが、

『どんな教訓・思い込みであれ、

 己の胸に刻んできたのはまぎれもなく自分自身である』ということです。

 

「お金は消える」という発言をきいて、わたしは「お金は消えちゃう、怖い」

と、自分で勝手に判断したのです。

 

実際、わたしと同じ親に育てられたきょうだいは、

そんなこと気にも留めてなかったですし。聞いた記憶すらないかも(笑)

 

こう書いてしまうと身もふたもないですが、

わたしにとって、もしも今が不本意な現状であるとしても、

それを望んだのはほかならぬ自分自身である、ということです。

 

かつてはいろいろと思うままでないことを

両親や周りの人たち、世間のせいと考えて恨みましたが。

 

結局は己の人生の唯一の主役は自分自身であり、

自分から逃れることはできません。絶望ですね。

ですが、同時に希望でもあります。

 

絶望と希望を繰り返して、『自分』を創る、

あるいは自分自身への理解を深め、自分を知っていくことで、

わたしはお金との付き合い方(に限らないかな?)を変えようとしてきました。

 

これが正解! と言うものはないと思いますし、

まだまだわたしの人生も途上ですし、

これからいかようにも変わっていくと思いますが、とりあえず、

思うことを書きます。

 

で、前置きが長くなったので、続きます。

 

つぶやいてます。

http://twitter.com/konohanasakura4